評判の黒四ダムを見たいと野風が言ったのは、十月に入って間もなくのことでした。
近ごろは体調のせいもあって山行きの機会も減っておりましたが、ダムまではともかく湯治を兼ねて立山方面への吟行を試みることになりました。
メンバーは野風主宰の俳句雑誌『石心』の同人数名、松本、諏訪、塩尻などに在住する男たちが、北アルプスの山ふところに抱かれた秘湯の一軒宿に参集したのでした。
もちろん私も買い替えたばかりの新型ルノーに主人を乗せて、狭い山道に苦闘しながら目的の湯宿にたどり着きました。
話に聞いた通り、山の登りかけに湧いたこの温泉は、眺めといい泉質といいすばらしいものでした。
とっぷりと暮れた露天風呂に浸かってぼんやりとしておりますと、山の端から上弦の月が昇ってまいりまして、急に向こうの風景が視えてきたのでした。
岩風呂の傍らには自家発電の灯りがありましたが、この奥山にあっては暗がりにマッチを擦った程度で、やがて優勢な闇に呑みこまれてしまうかと思われるほどでした。
それが月明かりによって嘘のように払われ、眠りに就いた樹木の色や形をほんのりと浮かび上がらせたのです。
幼いころ、夏の寝苦しさに目を覚ましますと、濃い緑色の蚊帳を透かして縁側や庭の草木を見ることがありました。
その時の夢のような感覚に似て、じんわりと体に広がる心地よさを感じておりました。
秋もかなり深まった時期でもあり、当夜の客は私たちのほかには山登りに向かう二組のパーティーが泊っているだけでした。
その若者たちは明朝の出発に備えてすでに寝に就いた様子で、私の耳に触れるのは岩間をつたうかすかな湯の音と、低くひびく発電機の音ばかりでした。
野風もこの夜はことのほか上機嫌でした。
ふだんはあまり酒など嗜みませんのに、土地の酒をほどよく飲み、食も進んで大いに俳句を語り合いました。
翌日はあたりを散策し、午後から句会を催す予定で、少人数でもあり、たまには歌仙でも巻いてみようかなどと、それぞれが大変な張り切りようでした。
子供のように気持ちを高ぶらせた大人五人が、ようやく床についたのは十時を回ったころでした。
都会にあってはまだ宵の口ですが、山の宿ではすべてが活動を停止する時刻なのです。
灯りがよろよろと消えていき、その時になってやっと発電機が止まるという女中の言葉を思い出したのでした。
私は野風と共に部屋に残り、他の三人は懐中電灯の光を頼りに隣りの部屋へ引き上げて行きました。
蒲団を延べ、主人を寝かせて床につきますと、酒の勢いもあってたちまち睡魔におそわれました。
ところが、たしかに眠っているはずなのに、私の頭の芯は醒めていました。
先刻眺めた月明かりの景色のように、眠りの庭に白しろとした風景が広がっているのです。
そうしてどれほど経ったときでしょうか、私はかすかな空気の揺らぎを感じて、はっきりと目を覚ましました。
おそらく夜半を回っていたのではないかと思います。
宿全体が闇に沈み込むように眠っているなか、野風がそろりと蒲団を抜け出す気配を感じたのです。
山の夜はかなり冷え込みます。
主人の去った方向に首筋を伸ばしますと、冷気が肩のあたりまで忍び入ってきました。
手洗いだろうか。
風が汲取り口から吹き入る便所を思い浮かべた途端、たまらぬ尿意と喉の渇きを覚えました。
どうやら、昨夜の酒が目覚めの犯人だったようです。
私はしばし枕元の懐中電灯を探しましたが、みつからないまま野風のあとを追いました。
ほとんど手探りで廊下を進んでいきますと、先の方で微かに影が動き、野風はどうやら玄関口を脱け出たようでした。
旅館の常で客の出入りは全くの放任状態です。
山の宿ですから表向き深夜の外出を禁じておりますが、その気になれば徘徊は自由、まして露天風呂のある温泉場なのですから、足下の危険さえ厭わなければ随意の入浴を妨げるものはありませんでした。
しかし、野風の行動はどのように考えたらいいのか分からないものでした。
とうてい風呂に入るものとは思えず、私は不審の念を抱きながら半開きの玄関をくぐり抜けました。
外はすでに月が隠れ、大分暗く感じられました。
それでも頭上には星の帯がかかり、向かいの稜線と私の背後の山壁に支えられてハンモックのように吊り下がっていました。
その星明かりの下、ひと筋あやしげな軌跡がつづいているように視えたのは、私の思い込みだったのでしょうか。
本道を逸れ、細道をくだって沢の深みに降りて行く野風の影が、物に紛れんとしつつどこまでも私の視野に映っていたように思うのです。
私が引き寄せられるように薮を掻き分けていきますと、遠くからせせらぎの音が聴こえてきました。
宿の位置する高みからは覗き見ることのできない渓流が、山の切れ目にひそんでいたのでした。
谷底に着くと、野風はしばらく水の流れに見入っておりましたが、やがて周囲を窺うふうに首を伸ばしました。
私は岩陰に隠れ、息をひそめて主人の視線を逃れました。
一瞬ののち、水際の岩に伏して水を飲む野風の姿が在りました。
黒い着物が岩の影に連なって、長い一つの生きものに化身したのかと思いました。
容易に顔を上げない野風の様子を、私は声もなくみつめておりました。
坂道を夢中で這い登り、主人よりも先に戻って蒲団にもぐり込みました。
張り詰めていた肌が、温みに溶けていきます。
先刻までの尿意も渇きも、すでに遠退いていました。
私は目をきつく閉じ、呼吸を整えながら、いま見てきたばかりの光景を反芻していました。
昔話であれば野風の姿が蛇にも川獺にも変わり得ましょうが、異様に長い生きものの影は私の恐怖心が描いた幻想にすぎず、野風が野風であったことは疑いのないことに思われました。
息をひそめて待つうちに、主人は戻ってまいりました。
私は深い眠りを装い、それらしい寝息をたてておりました。
しかし、主人は私の様子を窺うといったことはなく、部屋の隅で微かな衣擦れをさせたあと、すぐに眠りに就いたようでした。
私はますます高じる主人の奇癖におどろきながら、これから先どこまで進むものかと不安を濃くしました。
もはや水好きいうものではなく、水狂いにちがいない。
この夜の渇きの因が酒などではなく、野風の魂の深みから発していることを感ぜずにはいられませんでした。
翌朝、周囲を歩きまわって正午近くに戻ってまいりますと、宿の女中に廊下で呼びとめられました。
「お客さん、いくら酔ったといっても丹前着たまま風呂に入るなんて、ちょっと非道すぎやしませんか」
「えっ?」
なんのことかと戸惑いましたが、すぐにすべてを悟りました。
女中は戸棚の中にびしょ濡れの丹前を発見し、あまりの常識外れに怒りを抑えられなかったのです。
私は自分が犯人と疑われていることに動揺しました。
しかし、言い訳することを諦めました。
丹前がみつかったのは、野風と私の泊った部屋ですし、こんな無謀な行為は当然若い方の私であると思われるのは避けられないことだからです。
私は口ごもったまま、すごすごと引き下がりました。
(つづく)
(2012/11/26より再掲)
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