(出もどり狐)
いつのことだったか、三陸の北から南にかけての入り組んだ海岸線を、それはそれは恐ろしい津波が襲ったげな。
赤子を身籠っていた母者人は、朝早く漁に出る亭主のために大好物の稲荷寿司を作り、昼飯用に持たせて家を送りだしたそうな。
残りの稲荷は、自分のために取っておいた。
昼時になると、母者人はワカメの味噌汁をつくり、稲荷寿司を存分に腹に詰め込んだらしい。
赤子の分まで、わき目も振らずに食うたと聞いている。
そうして午後に亭主が帰るまで家の中で身体を休めようと、浜にも出ずに奥の居間に籠っておった。
満腹になって目の皮がたるみ、母者人はついうとうととしてしもうたのだろう。
午後のお茶の時間が迫るころ、いきなり荒くれ男が雨戸を揺するような音がして、母者人の身体は畳の上に叩きつけられた。
勝手場の鍋釜や笊に揚げておいた食器類が悲鳴をあげ、ガチャガチャと転げ落ちる音がして母者人の肝を縮みあがらせた。
そのうち、居間に据えられた船箪笥が祭りのハネトのように跳びはねて前方にせり出してきた。
長い横揺れが続き、箪笥はがくがくと壁にぶち当たって、ついには母者人めがけて倒れかかってきた。
(ハヤーッ、山の大風でミズナラの大木が倒れかかったときは、すごい地響きがしたというが・・・・)
母者人は、親から伝え聞いた森の出来事に引きくらべていた。
そうすることで、いま起こりつつある出来事の意味を理解しようとしていたのだ。
しかし恐ろしいことに、倒木なら一度かぎりの大地の揺れで済むものを、繰り返し揺り戻す地震の不気味さに怖れおののいた。
海辺の町が、町ごと地表から引きはがされるような恐怖だった。
山から下りてきて二年にも満たない母者人は、隣の駄菓子屋のおかみさんに声をかけられて、ひとまず沖見が丘の高台に避難した。
「海の者は、地震が起こったら、まんず海に尻向けて走るもんだ」
大きな揺れを感じたら、何も考えずに高台に向けて走れというのだ。
何度も津波に襲われた経験が、代々ことわざのように子に伝えられているのだ。
母者人は赤子が腹の中で踊らないように手で押さえ、一目散に小学校裏の丘を駆け上ったそうな。
沖見が丘に登って海を振り返ると、これまで見たこともない白波が磯に向かって押し寄せてくるところだった。
黝い水の塊が、白帯のあとを追って湾の口から入り込む。
入江を取り囲む山肌にぶつかり、飛沫を上げながら堤防を越えて民家に襲いかかったげな。
「ああーっ、船が後ろ向きに揉まれている・・・・」
丘までたどり着いた住人の一人が声をあげる。
母者人は漁に出ている亭主のことが気にかかり、どこかで翻弄されているのではないかと外海まで目を凝らした。
水平線が均したての畝のように盛り上がっていて、入船も海鳥の姿も見当たらなかった。 結局、亭主は幾日待っても帰ってこなかった。
どこでどうなったのか、生きているのか死んでいるのか、それさえもはっきりしなかった。
母者人の家も駄菓子屋のおかみの家も、みな流されてしもうたそうな。
あたり一帯、堅牢なビルの枠組みを残すだけで、日々の暮らしはおびただしい瓦礫となって散乱していた。
母者人は体育館にしばらく避難していたが、数日経つと次第に耐えられなくなった。
亭主がいればこそ漁師町で暮らしていけたが、慣れない人びとの間でおろおろするのは嫌だった。
(郷里に帰ろう)
決心するのは早かった。
夜のうちに体育館を抜けだし、壊れた家や折り重なる材木の間を縫って町から脱出した。
生まれた森にたどりついたのは、陽が落ちるころだった。
母者人の親や兄弟が無事でいるか、消息を尋ね歩いてその夜は森で寝た。
眠りの中で、亭主が海の方から歩いてきた。
「よお、大漁で水揚げに手間取ってな」
夢なのか、亭主は屈託のない表情で笑っていた。
本当に亭主は帰還できたのか?
母者人自身が眠りの中にあって、容易に判断がつかなかったらしい。
それもそのはず母者人には、沖見が丘から息を呑んで見守った津波の恐ろしさが染み込んでいた。
迷った末に、母者人は亭主の姿を幻影にちがいないと結論づけた。
(あの人は、いつも生死の境目に現れて、わたしを惑わせる)
母者人は、亭主となる男に初めて出逢ったときから、運命の不思議さを感じていたらしい。
・・・・その日は、すこぶる寒い日だった。
時化(シケ)で漁に出られない浜の独身男は、里に住むかつての同級生から誘われ、山の猟について行くことにした。
同級生は鉄砲が得意で、よく獲物を捕ってきては浜の男と分け合った。
会えば互いに珍しいものを持ち寄って、家族への土産にしていたんだな。
兎や鹿の肉と、サワラやブリを交換した。
熊の干し肉をもらった時は、ウニやホタテを持って行ったりしていたようだ。
そんな仲間だから、鉄砲うちは勢子の役として浜の男を気軽に参加させたらしい。
ところが油断があって、浜の男は獲物を深追いしている間に鉄砲うちとはぐれてしまった。
日が傾き雪が降り出すと、浜の独身男はもう半狂乱で森の中を歩きまわった。
里へ戻る道が見つからず、とうとう疲れ果ててブナの根方にうずくまってしまった。
当然空腹だったが、それを意識する間もなく目を閉じた。
ほうっておけば、夜半には目を開けることもできなくなり、明け方には冷たくなってしまうのは明らかだった。
その有様をそっと窺っていたのが、若い娘っ子の母者人だった。
はじめは猟に来た男を警戒していたが、行き倒れに近い状態で眠りこける男を見ていると、そのまま放置しておけない気持ちになっていた。
早々と沢向こうへ逃げ出した家族と離れ、ひとりブナ山にとどまって男の様子を見つづけた。
陽に焼けた顔は、山では見ることのできない逞しさを感じさせた。
全身からは、潮の匂いをぷんぷんと発散させていた。
友人から借りた小さめの狩衣からは、浜の男の日焼けした手足が覗き、夢でも見たのかビクッと反応するたびに筋肉にうねりが走った。
娘だった母者人は、それまでに感じたことのないトキメキを覚えていた。
一族の細面のオトコたちと違って、顎の張った四角い顔や、手足を走る太い筋肉の動きに魅入られてしまったのだ。
この地方の言い伝えには、百年も前に異郷の者と結ばれて、きれいな娘を授かった先祖の噺が残っている。
ひょっとすると目の前の男も、外界との境を越えて森の中に紛れこんだ者ではないのか。
(ならば、この者を死なせるわけにはいかない・・・・)
母者人は、あたりに散り敷くブナの葉をかき集め、男の身体を幾重にも覆った。
それだけでは心許なく、落葉の中にもぐりこみ、男に寄り添って一晩中温めてやった。
その間にも雪は止むことなく、男の浅黒い顔にも白く冷たい花弁が降り積もった。
母者人は自らそっと掃くように払いのけ、雪明かりに浮かびあがる男の面に見惚れておったらしい。
夜半を越えると、あたりの空気はますます緊張を増していった。
いっぽう落葉の下の男は、それ以上冷え込むことなく、徐々に温もりが全身をめぐるようになった。
抱きかかえるように肌を接する母者との間に、互いの血が通いあうように感じられた。
異なる世界の者とはいえ、トクトクと音を立てて行き来する鼓動は、天から授けられた生きもの同士の音だった。
(太ももが脈打ちはじめたら、この人は自力で命を取り戻せる・・・・)
母者人は、男の鼓動を見定めたのち、明け方を待たずにその場を離れるつもりでおった。
ところが、男の筋肉がゆるんでくると、いつの間にか母者の方が抱きしめられていたそうな。
少しでも温もりを失うまいとする遭難者の、無意識の行為だったにちがいない。
母者人も振りほどく意思はなく、そのまま夜明けを迎えることを覚悟した。
(暗いうちならよいが、間もなく東の空が明るんでくる・・・・)
さすがに、わが身の正体を明らかにするのははばかられた。
(それなら、せめて山に伝わる化粧方を試してみよう)
母者人はオシロイバナの実でつくった白粉を顔中にはたき、唇にはグミの実をしぼった紅を差した。
そうして後ろ向きになり、呪文を唱えて印を結ぶ。
久しぶりの変身の術は効果をあらわし、独身男は娘の存在を視野にとらえて生の世界によみがえった。
翌日、娘は漁師の男をともなって山を降りた。
道中、木々の芽ぶきがそう遠くないことを教えながら、互いの地を行き来することを提案した。
母者人の弾んだ声は、森の春をいち早く呼び寄せたようだった。
春の朧月が東方に傾いたころ、幾十もの明かりを連ねた提灯行列が山の稜線を下っていった。
夜半を回った時刻だから、あまり気づいた者はいないかもしれない。
たまたま尿意を覚えた里人の一人が、山に向かって放尿をしながら寝呆け眼でその光景を見たそうな。
「あっ、狐の嫁入りだ・・・・」
一定の間隔を保ち、しずしずと漁師町に近づいたのち、ある地点で明かりが消える。
それは昔からの約束事のように終焉を迎え、あたかも厳かな儀式に立ち合っていたのかと錯覚させた。
深夜、漁師町の一角で人知れず婚礼の儀が執り行われたらしい。
町外れの稲荷神社の奥宮に燈明が点り、白無垢の花嫁と羽織袴の新郎が神主のお祓いを受けていた。
後ろに控える人影は、いずれも長い頭巾をかぶって沈黙していた。
「それでは、これで稲荷大明神の神韻がつつがなくもたらされたことを証します」
神主が拝殿に向かって一礼すると、奥宮の明かりが風に揺れ、ふっとかき消された。
漆黒の闇が戻ってきて、長い頭巾の人影も闇に埋もれた。
そこに立ち会っていたものは、はたして何者だったのか。
漁師町の誰ひとりとして見届けた者がいないのだから、人知の外の出来事といってよかった。
その日以降、駄菓子屋の隣に住む独身男の家に、若い娘の姿がみられるようになった。
「あんれまあ、おまえさんどこからこんな娘をすびいてきた?」
漁師町の男は、よく出入りの飲み屋の女を嫁にすることが多いものだから、駄菓子屋のおかみさんもその筋の想像をしたようだ。
「なあに、山家の知り合いの紹介で、姉妹の一人をもらってきたんだ」
「ほう、そうかいのォ」
それにしても、ずいぶん若くてきれいなオボコだなあと声を引きずった。
おかみさんが騒がしいものだから、二人は顔を見合わせてにっこりした。
そうなると、詮索好きのおかみも諦めて駄菓子屋の店番に戻っていった。
一年有余、それは続いた。
天気が良い日には、朝早く亭主を送りだす若妻の姿が見られた。
二年目の中頃、ようやく赤子を身籠った若い女房は、家の中で過ごすことが多くなった。
浜での仕事もできないではなかったが、亭主がやたらに労わるものだから、腹の中の赤子に話しかけることで日を送った。
・・・・そして、あの大地震の発生である。
命こそ助かったものの、母者人は漁師町での生活に見切りをつけて山に里帰りした。
里帰りといえば聞こえはいいが、実際は亭主を失くした女房の出戻りである。
幸い家族は暖かく迎えてくれ、一族の者も後ろ指など差す者はいなかった。
震災から数ヵ月後、母者人は子を産んだ。
「ふっくらとした好い娘じゃ・・・・」
森の話題を独り占めにするほど評判の赤子だった。
ところが、生まれて何カ月も過ぎてから、フクシマの電気製造工場で起きた爆発の塵が風に乗り、この森の上にも降下した事を知った。
後からわかった話だが、強風に運ばれた雲にはセシウムとかいう悪い成分が含まれていたらしい。
地震と津波で大変な被害を受け、頼りにする亭主まで失った母者人は、産後の肥立ちが悪く体調を崩していった。
赤子は何にも知らずに無邪気に育っていったが、この先どのようになるのかは誰にも想像ができないのだ。
「それにしても、美しい・・・・」
森の住人はみな誉めそやした。
この娘には、異郷の血が混じっていることにも薄々気づいていた。
そして、物知りフクロウのもたらす情報から、白百合に似た面ざしがいつの日にか鬼百合のように変化しなければいいがと、心の底から案ずるのだった。
(おわり)
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いつも手探りで書いているので、こうしたコメントをいただくと、たいへん力づけられます。
もっと世界を広げたいとも思いつつ、なかなか思うようにいかないのですが・・・・。