⑧ 旋風の跳梁
この火災は三日間にわたって、処々に旋風を起こしている。その最も大きなものは本所被服廠跡に起こったもので、約四万の人命を奪った。
さらに「科学知識」第三巻所載の今村博士によれば、<本所被服廠跡に襲来した旋風をいち早く注目した位置は、東京高等工業学校前隅田川上であったが、時刻は午後四時ごろ、旋風の大きさは国技館ぐらい、高さ百米ないし二百米、時計の反対の向きに回りて、水上の小舟を一間もしくは二間の高さに巻き揚げて、当時盛んに燃えつつあった高等工業学校の焔と煙とを巻きこんで、間もなく横網河岸に上陸し、北の安田邸と南の安田邸との間をかすめ、被服廠の中央から北の方を過ぎ、あっという間にそこに避難していた群衆の荷物に延焼し、避難者の着衣に燃えつき、火の海となりて、ここに一場の焦熱地獄を現出し、三万八千人の生命を奪い去った。>と記録している。この時の風速は、毎秒七、八十米に達したと推定している。
旋風の大きさ、高さとも驚きのほかはないが、同じような規模のものは、今戸付近その他でも起こっている。寺田工学博士によると、これらの旋風はすべて同一のもので、大川筋を北の方から次第に南下したという。また、これらの旋風のためか、あるいは火勢のためか、千葉県の船橋の無線電信所に東京の小学校児童の通信簿が飛来したため、東京に大火災があったことを知ったいう。
寺田寅彦は、「震災に伴って起こった東京の火災は、これによって誘発された旋風のために、一層その災害を大きくしたように見えるといい、都内の旋風の状況を克明に調べ、それによると、地震後の旋風は、下町を中心として、東京都内で百か所近く発生しているという。旋風は、火流がある空間を包み込むような状態で広がった・・・・。(*現在では、火災旋風と表現されている)
東京市内における地震による被害建物は、「東京震災録」によると、22万5,155棟、549万4,203坪にのぼった。
<死傷者>は、14万1,637人で、このうち<死者>は6万0,198人であった。死者が多かったのは、本所被服廠跡(4万4,030人)、浅草田中小学校敷地内(1,081人)、本所横川橋北詰(773人)、錦糸町駅(630人)、浅草吉原公園(490人)と記録されている。
(つづく)
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