昭和中期の歌謡曲歌手といえば、春日八郎・三橋美智也・三波春夫のビッグスリーがラジオやテレビでもてはやされていた。
中でも春日八郎の「お富さん」はその歌詞が脳に沁みついていて、
「粋な黒塀・・見越しの松に・・婀娜〈あだ〉な姿の洗い髪・・」とづらづらつながって出てくる。
忘れかけた歌詞を思い出す作業はボケ防止にちょうど良いと思って続けてきた。
ところが、その先の
「死んだはずだよお富さん・・生きていたとは・・お釈迦様でも・・」のところで、お富さんという人はどういう人だろうと疑問がわいた。
調べてみると、歌舞伎の「切られ与三」が出元で、〈以下は引用〉
歌舞伎の演目、切られ与三は本外題(正式名称)を「与話情浮名横櫛」と言い、歌舞伎世話物の人気の演目だそうだ。
幕末に実在した長唄師匠・芳村伊三郎の逸話をモデルにした講談を元に、三代目瀬川如皐によって書かれた。
単独の芝居としての初演は嘉永6年(1853年)3月の江戸中村座で、与三郎を八代目市川團十郎、お富を四代目尾上菊五郎(当時・梅幸)が演じて好評だったが、その直後に主演の八代目團十郎が謎の自殺を遂げてしまってからは、ほとんど上演されていない。
ついでだから、ウィキぺデイアから<あらすじを>を引用すると、
江戸の大店伊豆屋の若旦那(養子)の与三郎は故あって身を持ち崩し、木更津の親類に預けられていた。春の潮干狩りの時期、木更津の浜をぶらついていた与三郎はお富とすれ違い、互いに一目惚れしてしまう(序幕・木更津浜辺の場)。
ところがお富は、地元の親分・赤間源左衛門の妾だった。その情事は露見し与三郎は源左衛門とその手下にめった斬りにされるが、源左衛門はこの与三郎をゆすりの種にしようと、簀巻きにして木更津の親類のもとへ担ぎ込もうとする。いっぽうその場を逃げ出したお富は源左衛門の子分の海松杭(みるくい)の松に追われ入水するが、木更津沖を船でたまたま通りかかった和泉屋の大番頭多左衛門に助けられる(二幕目・赤間別荘の場、木更津浜辺の場)。
そしてそれから三年。与三郎はどうにか命を取り留めたものの家を勘当されて無頼漢となり、三十四箇所の刀傷の痕を売りものにする「向疵の与三」として悪名を馳せ、お富は多左衛門の妾となっていた。
或る日のこと。与三郎はごろつき仲間の蝙蝠安に連れられて、金をねだりに或る妾の家を訪れた。ところがそこに住む女の顔をよく見れば、なんとそれは三年前に別れたきりのお富である。片時もお富を忘れることのできなかった与三郎は、お富を見て驚くと同時に、またしても誰かの囲いものになったかと思うとなんとも肚が収まらない(ここで恨みと恋路を並べ立てる「イヤサこれお富、ひさしぶりだなア…」の名科白がある)。やがて多左衛門が来て、そのとりなしで与三郎と安は金をもらって引き上げる。
お富は、多左衛門には与三郎を兄だと言い繕ったのだったが、じつは多左衛門こそがお富の実の兄であり、多左衛門は全てを承知の上で二人の仲をとりもとうとしていたのである。このあと多左衛門はお店からの呼び出しを受けて再び出掛け、和泉屋の番頭籐八がお富を手篭めにしようとするのを与三郎が助けるが、籐八が海松杭の松の兄であったことから源左衛門一味の悪事を知り、復讐を誓う。また刀傷を治す妙薬を知るなどのくだりがあって、与三郎が「命がありゃあ話せるなァ」とお富を引寄せるところで幕となる(三幕目・源氏店妾宅の場)。
その後の幕は和泉屋での与三郎の強請り、野陣ヶ原での与三郎の捕縛、続いて『嶋廻色為朝』(しまめぐりいろのためとも)という常磐津の所作事があり、女護が島に辿りついた源為朝と島の女たちとの色模様を見せるが、それは遠島になって島抜けをする途中の与三郎の見た夢であった。そして島を抜けた与三郎が下男忠助のはからいで、父親の伊豆屋喜兵衛にそれとなく会う情感豊かな「元山町伊豆屋の場」、平塚の土手で与三郎が源左衛門と再会する世話「だんまり」のあと、大詰は旧知の観音久次の自己犠牲で与三郎の傷痕が消える「観音久次内の場」となる。
とんでもなく面白そうな展開で、春日八郎の「お富さん」の歌詞にはそれらが網羅されていたのだ。
ボケ防止どころか、得した気分になった。
参考=画像
〈画像もウィキぺデイア〉より
しかしながら、自分では調べる気さえありませんでしたから、今回取り上げて解説いただいたのはとても勉強になりました。
なるほど、「イヤサこれお富、ひさしぶりだなア…」もこういう事だったんですね。
>勉強になりました・・・... への返信
死んだはずだよ お富さん・・何も知らずに歌っていましたが、今回調べてみたらなんと、なんと。
面白い話があったんですね。
ところでGOOブログは終了するようですね。
みなさん、もう引っ越しされたんですか。
膨大なデータはどうなるんでしょう?