どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

(超短編シリーズ) 84 『合図者』

2013-02-27 04:24:46 | 短編小説



 秋本早苗は、マンション4階の窓から隣の工事現場を見下ろしていた。
 半年前までは広々とした空き地だったところに、次々と建築用の重機や資材が運び込まれていた。
 早苗は通販会社の電話オペレーターとして勤務していたから、昼間の進捗状況を逐一見ていたわけではない。
 また、夜間には工事現場全体が丈の高いボードで囲われていたから、地上からの視点で眺めたということもない。
 ところがこの日、早苗は風邪をひいて会社を早引けしてきた。
 まもなく三月になろうかという季節になってから、用心していた風邪に捕まってしまったのだ。
 午後二時のマンション4階は、南からの光が射し込んで一足早い春がやってきたような錯覚に陥る。
 それでいて寒気がするのは、急激に熱が上がってきた兆候にちがいなかった。
 自分の体調もそうだが、工事現場の様相にも変化があったことを何かの符合のように感じている。
 ぼんやりした頭で、記憶に残っている断片を思い出していた。
 例えば、杭打ちが終わったあと、掘られた溝にコンクリートを流し込んでいたな・・・・とか。
 シートで覆う養生も済み、いつの間にか長方形の基礎が起ち上がっていたなあ、とか。
 これからの工事では、ドンドンと音がしたりするのだろうか。
 どんな重機でも、何らかの騒音を発しそうに思える。
 (まさか、地響きなどしないわよね?)
 熱っぽい目を凝らすと、ブルドーザーの代わりに中型のクレーン車が配備されていた。
 気になるのは、敷地の端に積まれた何本もの鉄骨である。
 いずれ基礎部分に鉄骨が固着され、頑丈なビルを組み立てていく過程が想像された。
 むき出しのまま堆く積まれている建築資材は、早晩出番が廻って来るから覆っていないのだろう。
 建築に精通しているわけではないが、たまたま目に触れた現場の雰囲気から、早苗にもある程度の予測ができたのだ。


 早苗は翌日休みをもらい、近くの病院で診察を受けた。
 予約を取っていなかったので、午前中の最後の受診患者となった。
 ほぼ三時間待ちの苦行だった。
 くたくたになった早苗は、待っている間中こんなことなら売薬でも飲んで部屋で寝ていた方がよかったと後悔した。
 診察は短時間だったが、ひと通りの検査をしたあとインフルエンザと判定された。
 病名が確定したことで、待たされた不満はやや薄らいだ。
 抗生物質と熱さましを処方され、少しだが安心感が湧いた。
 早苗は部屋に戻ると、コンビニで買ってきたパック入りのおかゆを温め、梅干しと昆布の佃煮で昼食を摂った。
 あまり食欲はなかったが、薬を飲むために胃に流し込んだ。
 体がだるく、どこでもいいから横になりたかった。
 何も考えないで二三時間眠ろうとベッドに向かった。
 この日も4階の窓から光が射し込んでいた。
 カーテンを閉じるために窓際に立った早苗は、この日初めてクレーンが動いているのを目にした。
 (あら、鉄骨を吊ってるわ・・・・)
 早苗のマンションに背を向けた形で、クレーン車はアームを伸ばしていた。
 声は聞こえないが、一人の作業員がこちらむきに手を挙げていた。
 どうやら、クレーン操作のために合図を送っているらしい。
 右手の掌を上に向け、ゆっくりゆっくり持ち上げる指示を伝えていた。
 クレーンの運転者は、鉄骨の両端に掛けたロープをアームの先端に引っかけ、小刻みな操作で吊り上げていった。
 合図を送り続ける作業員は、鉄骨のバランスを確かめながら水平に移動する合図を出していた。
 (へえ、作業の人があんなに居たんだ・・・・)
 合図をする男とクレーンの動きにばかり気を取られていたので、鉄骨の到着場所に何人もの作業員が待ち受けていたことに全く気付かなかった。
 よく見ると、資材置き場の辺りにも数人の男たちがいた。
 4階から見下ろしていると、作業員たちの位置関係がよくわかった。
 鉄骨にロープを掛ける者と受け取る者を直線で結べば、謂わば二等辺三角形の頂角に当たる位置に合図する男がいた。
 早苗からは最も遠い場所にいる男は、顔の向き、手の動作、身体の形、それらがすべて相俟って一個の信号マシーンになっていた。
「うわっ、素敵・・・・」
 早苗は自分の体調のことを忘れて、なおしばらく窓辺にとどまった。
 コンクリートの基礎の近くに吊り荷を下ろしたクレーンが、逆のルートをたどって鉄骨置き場にアームを移動させる。
 その動きの先には的確な指示を出し続けるあの男がいて、今度は掌を下に向けてゆっくり小刻みに吊り荷へと誘導するのだった。
 早苗はワンクール見届けたところで、フーッと息を吐いた。
 合図する男の洗練された動作が、体の中にシャンとした気分を持ち込んだ。
 (薬が効いてきたのかしら?)
 なんとなく誤魔化したような照れくささがあった。
 それはそれでいいじゃん・・・・。
 あたしだって女なんだから。
 その場その場の気分で、何をどう考えたって許されるのだ。
「さあ、寝よう・・・・」
 ぼそぼそと呟いて、厚手のカーテンを勢いよく引いた。


 翌日もクレーン車による作業は続いた。
 堆く積まれていた鉄骨はすべて移動が終わり、この日は支柱の固着工程に入るらしかった。
 パジャマのまま立って行ってなんとなく外を覗いたのは、一晩で大分気分が好くなっていたからかもしれない。
 前の日、早苗は長い昼寝のあと再びおかゆを食べ、薬を飲んでまた就寝した。
 汗をかき、下着を取り替え、乳房の間を念入りに拭いた。
 なんだか湿っぽくて、甘い匂いがした。
 風邪をひいて味覚が鈍くなった代わりに、嗅覚が鋭くなった気がする。
 (気がするっていうことは、あくまで気のせいかもしれないけど・・・・)
 朝になったら、夢見心地の思いなどどこかに消えているだろうと考えたが、頭の片隅に残っていた。
 断続的な眠りの連続で途中何度目覚めたかしれないから、記憶にあるものが夜中の出来事だったのか朝方のものだったのかは判然としなかった。
 はっきりしているのは、ベッドの下に投げ捨てた下着がくしゃくしゃになって散らばっていること。
 枕元に置いたエヴィアンのボトルは、ほとんど空になっていた。
 道理で汗をかくわけだと思った。
 (あたしって、スポンジみたい)
 絞ればいくらでも水が出そう。
 だけど、汗をかいたから水分補給したのよね。
 夜通しかけっぱなしにしていたエアコンの音が、朝になって急にうるさく感じられた。
 リモコンで暖房を切った。
 つけっぱなしの加湿器はそのままにした。
 なんだか今朝は気分がいい。
 毎朝緊張して通勤していたことが嘘のように思えた。
 職場に向かうときは、男のように突っ張っていた気がする。
 それに比べて、ずる休みしたような心地よさはなんなのだろう?
 女って、こうした気分が好きなのよねえ。
 あたしも結婚しちゃおうかなあ。
 たった二日病気で休んだことで、こんなにぐずぐずになる自分が信じられなかった。
 (よし、バードウォッチングしちゃおうか)
 いたずら心がうごめいた。
 サイドボードに仕舞ってある双眼鏡を取りだした。
 尻のあたりに隠すようにして、窓際に近寄る。
 すでに工事現場ではクレーン車が動いていた。
 昨日よりは高い位置にアームが伸び、H型鋼の一端を保持している。
 相変わらずクレーンの運転者は、回転室の仕切り越しに背中の一部だけ見せている。
 おそらく運転者の視線の先に、あの人が居るはずだ。
 早苗はカーテンに隠れて、合図を送る作業員の位置を確かめた。
 前日には二等辺三角形の頂角に立っていた男が、この日はより基礎部分に近い場所にいた。
 作業をする男たちとクレーン運転者の双方を等分に見られる位置に立ち、頭上高く挙げた手で小さな輪を描いたりした。
 早苗は器械体操を見るような気分で、男の動作に見入っていた。
 手信号のスペシャリスト、動きの端々に決めの爽快さが匂い立つ。
 (見ちゃうぞ)
 相手がそうだから仕方がないんだといわんばかりに、双眼鏡を目にあてた。
 倍率をあげていくと、いきなりクレーンを見上げる顔が飛び込んできた。
 ヘルメットの下のきつい目が、濃い眉と共に斜めの角度で浮かび上がった。
 どきっとして、思わず焦点を顔からずらした。
 わずかにぶれて、男の胸元に止まった。
 <合図者>
 草色が主体の工事用アノラックの胸に、その文字が横書きされていた。
 ゼッケン風の布は、泥で少し汚れている。
 信号マシーンのような男に、あまり似つかわしくない名称に思えた。
 (合図もの?)
 一瞬、ヤクザ者とかハグレ者とか善からぬイメージが湧いたが、もう一度合図者の鍛えられた表情を捉え直すと、アイズシャと読むべきことを納得した。
 工事現場における合図者が、どのような評価を得ているのかは知らない。
 しかし、早苗にとってはその男は尊敬すべき存在に思われた。
 双眼鏡の中の男はまだ若く、作業員というより一流建築会社の社員のように見えた。
 重機の運転者や建築資材にロープを巻く作業員だって、荷崩れを起こさないだけの計算ができる人々だ。
 まして、三者の中央に位置して合図を送る合図者は、運転者を誘導し作業員を危険な区域から避難させるなどの判断を瞬時にできるエリートではないか。
 (あたし、あの人がいい・・・・)
 正午になったらクレーンも止まり、合図の男も昼の休憩時間になる。
 コンビニ弁当では味気ないから、近くの食堂をめざして必ずゲートを出てくるはずだ。
 風邪も少し良くなったようだから、化粧をして工事現場の入口近くで待っていよう。
 あの人が現れたら、まっすぐに目を見て「好きです」と告げるのだ。
 早苗は時計の針を確かめつつメイクをし、若草色のスーツの上にベージュのコートを羽織ってエレベーターで階下に降りた。
 エントランスのガラスに映る自分の姿を眺め、「うん、ヨシッ」と最後のチェックをする。
 あたしだって、女なんだから。
 心が折れないように念押しし、計画通りの場所へいそいそと向かった。


      (おわり)



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2 コメント

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読者を引き込む力 (丑の戯言)
2013-03-04 12:18:58
早苗……。年齢も容貌も、とくに表されていないようですが、次第にその可愛らしさが覗けるように仕組まれていますね。
やはり愛すべき独身女性のようですが、そんな彼女が建築現場の、ひとりの男に心が傾いていく。
その進行具合が読者を、ある意味で、心地良くさせてくれます。
「うまくいくように」とも、祈りたくなるようでもあります。

この著者の短編小説は、概ねダイナミックな決着を示さず、それでいて余韻を残すようです。
そうやって読者をさりげなく引き込んでいく力は、秀逸と言わざるを得ません。
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街で見かけた「合図者」の男 (窪庭忠男)
2013-03-04 18:49:44
小生これまで「合図者」という職分を知らなかったので、胸にそのゼッケンをつけた男の人を見かけて、ドキドキしてしまいました。
なんとも意味ありげな名称がれっきとした呼称と知り、その位置にあるものは相当の責任を持たされることも知りました。

これなら早苗に惚れさせてもよい・・・・丑さんにも応援していただき、万事うまくいくはずです。
いったん心を決めた女性は、ブレないですから。
ありがとうございました。
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