(NTT BCS) 硬派的社評漫筆+Rits

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9-9 相沢三郎 陸軍中佐

2015年09月14日 | 軍事

国家改造を狙う、 相沢三郎 陸軍中佐。(1部敬称は省略)

本籍は宮城県仙台 旧仙台藩伊達藩士 
福島県白河で生誕。一関中学(現 岩手県立一関高等学校)
仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校、第22期。
軍人としては質素にして、常に綿服をまとい、一見古武士の風格があり、
上官には恭敬をもって仕え、
部下には慈愛をもって臨み、
至誠至忠、その言行は模範的であった。
他人に対しては丁重、慇懃であり、皇室や国歌に関すること以外は、人と論争したことがなかった。
性格は気真面目・直情・朴訥=無口 豪放磊落。

趣味は音楽オルガン。身長は173cm.

剣道四段銃剣道の達人。 
陸軍戸山学校(体育)教官に就任する。陸軍士官学校付に異動。
下りて、陸軍中佐に進級。歩兵第41連隊付となった。次いで
台湾歩兵第1連隊付で台北高等商業学校配属将校の辞令。

日本陸軍においては国家総力戦を戦い抜くため、統制経済による高度国防国家を構成しようとしたのが「統制派」
皇道派」は
青年将校等と国家改造(昭和維新)を目指し。
「統制派」と対立した。
「統制派」この
皇道派を一掃しようとした。
永田は出身地域による部内の藩閥の構造を憂慮。
最後に残った長州閥が残存。この藩閥の解消を図る。
永田は「何よりも軍の統制」を重んじた。
それで、中央に位していた皇道派の中軸を更迭。
真崎総監の更迭も永田の画策と皇道派から恨まれた、
折も折り皇道派の相沢が陸軍省に到り、一番尊敬していた山岡整備局長を訪ね、談話中に給仕を通して永田少将の在室を確かめた後、
軍務局長室に闖入して直ちに軍刀を抜いて永田鉄山軍務局長を切りかかった。永田は椅子から立ち上がり数歩下がり右に避けようとしたが、背後を切られる。

在室していた。新見大佐は相沢の襲撃を防ぐように、永田をかばったが、相沢に斬りつけられ、重傷を負った
永田は更に、机を迂回し避けようとする。
相沢の鋭利な刃が永田の左背部を強く突いた。刀を引き抜くとき多量の鮮血が噴出す。相沢も左手の指を切る。
致命傷を与えることができず、とっさに左手で刀身を持ち銃剣刺突の要領で永田を刺した。
尚も、永田は立ち上がり数歩歩くが倒れる。相沢は永田を仰向きにして、左コメカメ・右頸部にとどめをさした。

新見大佐は重傷を負ったが軍事課員室に行き「局長室が大事だ」と叫んだ。軍事課員は局長室になだれ込む。そこで思いもかけぬ光景が広がっている。永田を抱き起こすが瀕死の重傷である。出血がひどく、心肺停止。
相沢は永田を惨殺した直後、左手の傷は出血しているでハンカチで縛り、医務室へ行く。

憲兵隊が急行して来た。憲兵は執刀者は医務室に行ったようだと聞き向かう。そこに将校姿の不審な男を見る。「憲兵ですが」と声を掛ける。「憲兵に用は無い」と問答。
憲兵は相沢の左手の出血を見て傷の手当を口実にし病院に行こうと告げ車に乗せる。
相沢は「向かう道が違う」と激怒したがそのまま憲兵司令部にむかった。
そこで、相沢の左手は8針縫う応急処置がなされる。

 第1師団軍法会議に於いて死刑判決が下された。
代々木衛戍刑務所内で銃殺刑に処された。

相沢は「永田に天誅を加えた」と公言したり、憲兵から「これからどうする」と聞かれ「さあ任地へ行くべきだろう」と答えたため、事件当時精神に変調をきたしていたという考えもある。

処刑の時、相沢は『目隠しはやらないで下さい。武人の汚れだから、私に限りその必要はありません』
『それでは射手が困りますから』といへば
『射手が困る、それではやりましょう』と従順に目隠しをし、
『私は外に出るのだと思っていましたが、この中でやるのですか』といって悠々刑架に就き、平然として少量の水を呑み、執行を受けたのである。

これから、2・26事件に進行する。これは、次項に掲示。

(相沢さんとは同県人。「豪放磊落な武人」として畏敬していた。
三男が出生した時にそれに肖る様に「三郎」を借名した)

 

 


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