(NTT BCS) 硬派的社評漫筆+Rits

BCSでBlogの講習を受けTestで開始します。
硬派の漫筆的随想ですゆっくりお読み下さい。

9-16 Part 3 読者の時間

2015年09月30日 | 身辺

*けりをつける「俳句で文末がけり で終わるのが多い!困難な問題をなんとか解決する」
*虎視眈々「虎が獲物を狙い定める鋭い目付き。機会を狙って様子を伺う様」
*指南「方角で必ず南を指す用に磁石を用いて設定されたカラクリ車が有った。から教え導くの意を持つ」
順風万帆「追い風を受けた船が帆を目一杯に張り快調に走っている姿。から物事が順調に進む様」
*山笑う『春山淡治にして笑うが如く 夏山蒼翠にして滴るが如く 秋山明浄にして粧うがごとく 冬山惨淡として眠るがごとし 中国の画家の言葉。
山を写生するに春=笑う。夏=滴るように。秋=粧う。冬=眠る。
季節の変化で応じ山を描き分ける かを説いている。
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礎=物事のきそ。
1世を風靡する=時代に圧倒的に流行。
芋ずる式=ある契機に次々に人や者が現れる。
オケラ=正面から見るとお手上げの様だ。
片棒を担ぐ=仕事・企みに加担。 相棒
葛藤=人同士がいがみ合う。
金に糸目を付けぬ。凧を上げるに必要な糸目は上から4分の1に糸目糸をつける。
亀裂=2人の関係に亀裂が入る。亀の甲羅のようにひびが入っている。
銀ブラ=銀座でブラジルコーヒーを飲む。
管を巻く=糸車で糸を巻き取る時に必要な小管が単調な音を出す。酔っ払いも同じようにクドクド愚痴る。
ぐれる=蛤の殻はピタリと合う。貝アワセのゲーム。はまぐり→ぐりはま=食い違って合わない。ぐれ がぐれる となる。
興奮の坩堝・栞・シカとする・ピカ1・ジグザグ・しっぺ返し・関の山・醍醐味
台無し・ちやほや(蝶や花や)・ちょっかいを出す(手を出す)途轍もない(轍はわだち』長いものには巻かれるる・根回し・ぶっきらぼう・へそくり・へそ曲がり
もんきりがた・急がばまわれ(びわ湖に関連)


9-15 遊び Part 2

2015年09月28日 | 身辺

綺麗なやまとことば

*いただきます「ごちそうを頭上に掲げた。頂く状態。それが言葉だけになる。
英語ではLet’s eat!“
いただきます・ごちそうさま”に相当する表現はない。
ごちそうさま は前回に記載。英語で感謝の意を込めて、 “Thanks for the nice meal.” 「美味しい料理をありがとう」

*ひたむき「1途に努力する。求道精神」

*御免下さい「お許しを!。迷惑をかけることえのお詫び。相手を慮る気持ち」

*おめかし「お洒落をする」こと。

*ややもすれば「予想される事柄になるだろう!」

*お口汚し「お客に食べ物を出すとき。好みに会わないかも知れないが!」
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*「めでみることば」 おかべ たかし 著 から 
*反りが合わない 「刀のソリは時代で代わる。出来合いの鞘ではソリが合わない事あり刀が納まらない。相性が悪いこと」
*鎬を削る「刀の稜線。対戦でこの部をこすりあう。激しく争う」
*互角「牛の角が左右同じ型。対戦者が拮抗。語源的には牛角。
*図星「弓の的の中心の黒丸。他人の指摘がその通りで正鵠を射る。
弓道では、左手を押手。右手は自由に使えるので勝手。
女房が自由に使える場所がお勝手。台所への出入り口が勝手口」
*天王山「織田信長を奇襲した明智光秀とこれを討つべく対峙した羽柴秀吉
とが争った岡。ここの争奪が、この戦争の勝敗を分けた。サントリーの山崎工場が有る場所(京都の郊外) 勝敗を分岐する處。
*拍車を掛ける「拍車とは乗馬するとき靴の踵につける金車。これで馬の腹を突き指示を出す。馬がその度合いで動いたり・走ったり反応。
それで物事の進行を早める意味となる。
*日ぶたを切る・口火をきる「どちらも“火縄銃〟を発射する前段階。
前者は火薬を盛る火皿のふた。後者は銃を発射時に火を付ける。戦闘開始。
*埒が明かない」乗馬訓練場を囲む柵。埒外には馬は出られない。それで”物事が順調に進まぬ〟の意。不埒=道理に外れている。
*ルビコン川を渡る。古代ローマでカエサルが大軍を引き連れてこの川を渡り、ローマへ向かった。
カエサルは「賽は投げられた」と叫び、元老院令を無視して渡河した。
重大な決断や行動を起こすことをいう。

(読者の御解釈を願う、語句は継続して、別項で掲載)



9- 14 シルバー ウイーク

2015年09月23日 | 環境

連休になって、シックリトした秋日和で、行楽を楽しめる。
5月の大型連休「ゴールデン(金)ウイーク」に対して、秋の大型連休えをシルバー(銀)ウイーク」と呼ぶ。
カレンダーの日付と曜日の並びによって、連休が、数年に1度生じる。

ハッピーマンデーにより、9月15日に固定されていた「敬老の日」が2003年から9月の第3月曜日に移動。
また、「秋分の日」は天体の状況・閏年などにより日が変わる場合がある。
今年の「敬老の日」は4週目になり、やや遅い。
「敬老の日」と「秋分の日」その間の1日が「国民の休日」としてブリッジが架けられ、休日となり、前日の日曜日を含めると長い連休。
国民の祝日で「成人の日」「海の日」「敬老の日」「体育の日」が可変的。海の日は新しいので対応が可能。
成人・体育は歴史的意義があるので固定化にすべきでは?
しかし体育の日は市民運動会の時期だから、土曜が準備・日曜が当日(仕事はお休みだろう)・翌日が後片付け。で具合よいとする市民は多いかも!


9-13 敬老 長寿

2015年09月21日 | 環境

寿命は天寿である。天に坐す造物主がお決めになる。
人間が寿命を延ばす事は出来ない。逆に1方的に短める人が出るがこれは不誠実なこと(今の社会では原因不詳の犯罪・無謀な交通事故で没する事が多発)与えられた人生は懸命に生きなければならぬ。
日本人は長寿になっている。勿論、経済的・医学的な精進も有るが!
これに付いて健康年齢が懸念さる。寿命は天から与えられるが、それに応じる身体は人間が造り上げなければならぬ。

人が二足歩行になって前足は進化し、手と指が発達した。それに連れ道具を創り、益々指の動きが器用になった。そして現世の親指が下にずれて、大きく動くように進化した。
内臓も立ち位置に順応するように成った。
喉は胃=食物、肺=空気と分別。咽、声帯は発音に適する位置に定着。
此の進化には数万年かかっている。
今の時代、健康年齢の向上には人智が大いに働いている。
①食生活の老人対策。
②日常の起居。運動機能で足腰が弱る・歩行困難になる老化の低減の防止と  
  現体力の維持・向上。
③思考力の痴呆化の予防。
加齢・経験で精神的なプラス面の向上。
これらを高齢者も自ら・行政も一丸となって行っている。
之で0万年も掛からず健康年齢は向上するだろう!
人間は健常なる高齢者になる。
百歳の人は多く存在する様になるだろう!
120歳で第2の還暦を向かえ、敬老される「お年寄り」になる。
(この項は先掲されたかも?)


9-12 遊び

2015年09月19日 | 身辺

日本語の「元の姿」

ちちんぷいぷい 徳川家光が幼少の頃の乳母の春日局が
          「智仁武勇御世のお宝」とであやした。
           意は「知恵と優しさ勇気を備えている君はこの世の宝。こん 
           な事で泣かず」にとの事。

肩が凝る     夏目漱石が「門」の文中で「頸と肩の継目に、石の様に凝っ  
           た」とある。
其れ迄は「肩が張る」と言っていた。
1目惚れ     独眼流正宗が城下町を歩いていたとき、すれ違った綺麗な   
          娘に1目(独眼)で
惚れた。

後の祭り     祇園祭りは七月一日から始まる。十七日の山鉾巡行を境に 
          「前の祭り」と「後の祭り」とよ
ぶ。後の行事が前に比べ賑やか
          さが少ないの
で「手遅れ」なことを称した。
小倉餡    あんこの種類は「こしあん・つぶあん」と、こし餡の中に小豆が 
         残っているものを指す
がこの、小豆が鹿の模様に似ている。
         鹿と言えば紅葉
(花札)。紅葉と言えば京都の小倉山。
          小倉百人1首も選者がここらに住んで居たから。

千鳥足   千鳥の歩くように、足を左右に踏み違え て歩く。
                餌を探してウロウロする様。

        人が酒に酔ってふらふらと歩く姿が、千鳥が動き出すときに倒れこ
               む様な格好に似ている。


雀百まで踊り忘れず。 幼いときの習慣は歳をとっても忘れ
ない。
                               「踊り」とは雀がピョンピョン歩く様。

                        「欣喜雀躍」「雀の涙」「竹に雀」等も多く使う。

有頂天  有頂天に登りつめる」=仏教の世界観の1つである天上界における  
       最
高の場をいう。天」は「天界」を意味する。そこに住する者。
              「有頂天に登りつめる「絶頂を極める」の意を
転じて頂上に         
       安住して自分を忘れてうわの
空である状態を指すようになった。


東京の地名 有楽町=織田信長の弟・茶人。織田有楽斉が住んだ。
      
       八重洲=徳川家康の通訳。オランダ「人ヨーステン」から。

       紀尾井町=紀州・尾張-伊井の屋敷町。
       歌舞伎町=誘致の目的で町名が先行。歌舞伎座は無い!
       大泉学園町=学校は無い。
       赤羽=赤埴(この地が関東ローム層の粘土)
犬吠崎  源義経・弁慶がここから船で奥州に逃げるとき連れてきた愛犬
      「若丸」をここに残した。犬は7日7
晩、吼え続けた。

大岩   なお鳴き続けた若丸は岩になった。

垣間見る 竹で出来た垣根越しにチラッと見る。生垣・石垣・玉垣

紅一点 中国の詩人「石榴の緑の1面に紅色の石榴の赤い花が咲く」から。 
      「集団中で異彩を放つ」男女を問わ
なかった。

いなせ  江戸日本橋魚河岸の若者の間で流行した髪型。魚のイナ(ボラ)の
      背に似ていることから、
「鯔背銀杏(いなせいちょう)」と呼ばれた。
      鯔背銀杏を結った魚河岸若者のように、粋で勇み肌の者を「いな 
      せ」と呼ぶようになる。

江戸前にぎり 昔は江戸城の前まで海面が迫っていた。そこで捕れた新鮮な
         魚をねたに、握り寿司を作る。
                   今では「ベルト前」「コンベヤ上」(回転すし)

シュークリーム chou(仏語=キャベツ)+cream(クリーム) creom puff
                    見た目がキャベツの様。
         
靴墨はshoe polish 無関係な2品。

猿も木から落ちる。雀百まで、踊り忘れず。丸くなる。
小さい秋見つけた。狼狽。目白おし。追分。落合。鷹揚。
(これ等はお考えを!)
追加 
鳩尾( きゅうび、みぞおち)水月(すいげつ)
腹の上方中央にある窪んだ部位

燕尾服 男子の正式礼服(FailCoat)  背の裾が長く割れている様が燕の尾。

*「めでみることば」 おかべ たかし 著 から 


9-11 暑さ

2015年09月18日 | 環境

「暑さ寒さも彼岸まで」と口上される。だが、
お彼岸までには1週間も有るがこの数日は雨模様で“涼しさを超えて寒い〟程。

9月も半ば過ぎるが初秋らしい秋日和・穏やかな気温に、恵まれない!
そして、夏以降に続く局地的大雨だ。
先日、茨城・栃木を襲った豪雨は記録的だった!
1日で2ケ月に降る雨量が降水した!
之では常識的に護岸工事で営々と築かれた河川の堤防も決壊するだろう!
今回破提した鬼怒川・渋井川も水流・水量等の地理的条件に因ったのだろう!
特にその辺りの堤防が弱かったのでは無いだろう!
テレビで見ると氾濫地域は地震での津波で浸水した地と同じようだ。
家が土台からブカブカと又多くの自動車が流されている。水流の力は恐ろしい。
全国的に建設省・府県が管理している河川の水防ではまた、大雨に因って破提が起こる可能性を含んでいる。

しかし之が多量のCO2の発散による異常気候に依るのであれば我々は日常生活を見直さねばならぬ。
原子爆弾は戦略的に広島・長崎に投下されたが、異常天候爆弾は何処に降るかは分からない!
河川の多い地域に降れば今の「治水」では及ばない。
全世界的な温暖化対策ではCO2の制限が策定されつつあるが全国の国民の取り組みは如何か?
1時期的な水害よりも、海水が上がり国土が水没し国の存在に関ることも発生している。
身近な災難を見て考えることでは?
災害に会い、未だ水没している方々、全被害者にお見舞いと激励を申し上げる。


9-10 2-26 事件

2015年09月17日 | 軍事

この事件は前の2稿に連なる。
相沢裁判が結審のころ、
近衛歩兵3連隊が満洲に移動予定だったので東京に有る歩兵1・3連隊との陸軍皇道派青年将校国家改造を目指し1483名の下士官・兵の陸軍部隊を率いて「昭和維新」と称して昭和11年2月26日未明に政府中枢を襲った反乱,クーデターを試みた事件(号外が出て、読んだ記憶はある)

皇道派の影響を受けた一部青年将校かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すと考えていた。
(先に皇道派の首脳の真崎教育総監が更迭され、後任に渡辺錠太郎中将=非皇道派が就任。その意趣返しに渡辺が事件の一目標にされ銃殺されたのはご不運だった。渡辺閣下の扁額が有る)

彼らはこの考えのもと、決起、その上で、軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。
昭和天皇は軍を私物化し、重臣を殺害した不法行為にお怒りになる。「反乱軍を鎮圧せよ」とご下命になる。
と政府は、彼らを「叛乱軍(反乱軍)」として武力鎮圧を決意し、包囲した。
原隊復帰の奉勅命令が出され
投降を呼びかけた。
叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。事件の首謀者は銃殺刑に処された。
以降皇道派は1掃され、統制派が軍を牛耳る。先頭に居たのが東條英機中将であった。
以降陸軍は
対米英戦を計画、大東亜戦に進む。

 


9-9 相沢三郎 陸軍中佐

2015年09月14日 | 軍事

国家改造を狙う、 相沢三郎 陸軍中佐。(1部敬称は省略)

本籍は宮城県仙台 旧仙台藩伊達藩士 
福島県白河で生誕。一関中学(現 岩手県立一関高等学校)
仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校、第22期。
軍人としては質素にして、常に綿服をまとい、一見古武士の風格があり、
上官には恭敬をもって仕え、
部下には慈愛をもって臨み、
至誠至忠、その言行は模範的であった。
他人に対しては丁重、慇懃であり、皇室や国歌に関すること以外は、人と論争したことがなかった。
性格は気真面目・直情・朴訥=無口 豪放磊落。

趣味は音楽オルガン。身長は173cm.

剣道四段銃剣道の達人。 
陸軍戸山学校(体育)教官に就任する。陸軍士官学校付に異動。
下りて、陸軍中佐に進級。歩兵第41連隊付となった。次いで
台湾歩兵第1連隊付で台北高等商業学校配属将校の辞令。

日本陸軍においては国家総力戦を戦い抜くため、統制経済による高度国防国家を構成しようとしたのが「統制派」
皇道派」は
青年将校等と国家改造(昭和維新)を目指し。
「統制派」と対立した。
「統制派」この
皇道派を一掃しようとした。
永田は出身地域による部内の藩閥の構造を憂慮。
最後に残った長州閥が残存。この藩閥の解消を図る。
永田は「何よりも軍の統制」を重んじた。
それで、中央に位していた皇道派の中軸を更迭。
真崎総監の更迭も永田の画策と皇道派から恨まれた、
折も折り皇道派の相沢が陸軍省に到り、一番尊敬していた山岡整備局長を訪ね、談話中に給仕を通して永田少将の在室を確かめた後、
軍務局長室に闖入して直ちに軍刀を抜いて永田鉄山軍務局長を切りかかった。永田は椅子から立ち上がり数歩下がり右に避けようとしたが、背後を切られる。

在室していた。新見大佐は相沢の襲撃を防ぐように、永田をかばったが、相沢に斬りつけられ、重傷を負った
永田は更に、机を迂回し避けようとする。
相沢の鋭利な刃が永田の左背部を強く突いた。刀を引き抜くとき多量の鮮血が噴出す。相沢も左手の指を切る。
致命傷を与えることができず、とっさに左手で刀身を持ち銃剣刺突の要領で永田を刺した。
尚も、永田は立ち上がり数歩歩くが倒れる。相沢は永田を仰向きにして、左コメカメ・右頸部にとどめをさした。

新見大佐は重傷を負ったが軍事課員室に行き「局長室が大事だ」と叫んだ。軍事課員は局長室になだれ込む。そこで思いもかけぬ光景が広がっている。永田を抱き起こすが瀕死の重傷である。出血がひどく、心肺停止。
相沢は永田を惨殺した直後、左手の傷は出血しているでハンカチで縛り、医務室へ行く。

憲兵隊が急行して来た。憲兵は執刀者は医務室に行ったようだと聞き向かう。そこに将校姿の不審な男を見る。「憲兵ですが」と声を掛ける。「憲兵に用は無い」と問答。
憲兵は相沢の左手の出血を見て傷の手当を口実にし病院に行こうと告げ車に乗せる。
相沢は「向かう道が違う」と激怒したがそのまま憲兵司令部にむかった。
そこで、相沢の左手は8針縫う応急処置がなされる。

 第1師団軍法会議に於いて死刑判決が下された。
代々木衛戍刑務所内で銃殺刑に処された。

相沢は「永田に天誅を加えた」と公言したり、憲兵から「これからどうする」と聞かれ「さあ任地へ行くべきだろう」と答えたため、事件当時精神に変調をきたしていたという考えもある。

処刑の時、相沢は『目隠しはやらないで下さい。武人の汚れだから、私に限りその必要はありません』
『それでは射手が困りますから』といへば
『射手が困る、それではやりましょう』と従順に目隠しをし、
『私は外に出るのだと思っていましたが、この中でやるのですか』といって悠々刑架に就き、平然として少量の水を呑み、執行を受けたのである。

これから、2・26事件に進行する。これは、次項に掲示。

(相沢さんとは同県人。「豪放磊落な武人」として畏敬していた。
三男が出生した時にそれに肖る様に「三郎」を借名した)

 

 


9-8 永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」

2015年09月12日 | 軍事

昭和陸軍「運命の男」永田鉄山 早坂 隆 著 

昭和10年8月12日 に号外が出た。曰く

「陸軍省の永田軍務局長が執務中に相沢中佐に惨殺さる」
この事件の号外のことは微かに覚えている。
事件の概約は歴史物で読んだことは有った。
これで詳細な記録物が出版されたので興味深く読んだ!
永田中将の経暦の概略。
長野県諏訪郡上諏訪町本町(現・諏訪市)出身。
この地では、門柱に使う良質な「鉄平石」が出る。のが「鉄山」の命名の謂れ。
明治31年 東京陸軍地方幼年学校入学。
次いで
陸軍中央幼年学校を2位で卒(ドイツ語を専修した)
明治37年10月 - 陸軍士官学校卒業(16期首席)
5年間の連隊勤務を終え。陸軍大学校に入学。ここも2位で卒業。
教育総監附勤務 ドイツ・ デンマーク・ スウェーデン駐在。
スイス大使館附武官。
参謀本部附。 教育総監課員。陸軍大学校教官(兼任)
軍事課高級課員。
整備局動員課長。陸軍省軍事課長。
少将に昇進。参謀本部第2部長。
(昭和9年)3月5日- 陸軍省軍務局長。
(昭和10年)8月12日 - 相沢三郎中佐に刺殺される。
中将に昇進。

軍務官僚として常に本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される秀才だったが、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に巻き込まれる。
彼は統制
の中心人物だった。
_______________________

陸軍では健軍以来、明治維新の功績で出身地による派閥が出来た。
日月の経過でこの区分別も解消されたが、長州閥(山口県)が独り残った。山縣有朋が主宰。これも消滅させられた。その後2つの閥が発生。
* 皇道派(こうどうは)
天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した。名称は主宰の荒木貞夫が軍を「皇軍」と呼んだ事による。
*統制派(とうせいは)
国家革新を企図していた。皇道派青年将校と異なり、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。
統制派皇道派と対立した。皇道派の真崎教育総監の更迭の経緯。
昭和10年7月陸軍の三長官(林銑十郎陸軍大臣・閑院宮参謀総長・
 
真崎甚三郎教育総監)会議で林大臣が真崎教育総監が過激な皇道派の首脳であるから、辞職を迫った。しかし、真崎は「三月事件の首脳の永田と之を重要する林大臣」の辞職を迫る。
これに対し閑院宮参謀総長が「軍の総意は貴職の辞任である」と一喝された。
これで、真崎総監の更迭が決まる。
皇道派は首脳の真崎が軍の中枢から外れたのは永田の画策によると「この更迭を操作したのは永田だ」と決め付けた。
これが「相沢三郎中佐に刺殺」事件に連なる。
「相沢事件」に付いては詳細を次項に記載。


9-7 「華麗なる千拍子」 なる カレーの味

2015年09月09日 | 身辺

「カレーライス」は日本の国民食である。
発祥のインドではスパイスを多用した複雑な味の煮込み料理がある。

主菜に肉・魚・野菜 etcで色・香り・辛味も多種。
これはカレーとはやや、趣が異なる。
ギリスで「C&Bカレーパウダー」をスパイスをあらかじめ調合したものを「カレー粉」として生産し売り出した。
これによりカレーは英国の家庭料理として普及した。
旧宗主国のイギリスがインド料理をカレーと総称して世界に伝え広まった。

日本では明治時代に英国よりカレー粉が輸入さる

家庭で「カレー」を作るには、炒めたメリケン粉を混ぜる料理方が必要。その手間を省く為に、メリケン粉等を混ぜた粉末の「カレー粉」が生産さる。
更に具材を煮た鍋に入れるだけでカレーが出来る「固形ルー」が多種できた。
戦後では具材を含めたパック・冷凍・固形なるインスタントカレーが続出、簡易食のトップで
カレーが家庭料理として普及した!