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(NTT BCS) 硬派的社評漫筆+Rits

BCSでBlogの講習を受けTestで開始します。
硬派の漫筆的随想ですゆっくりお読み下さい。

4-10 北方 四島

2016年04月20日 | 軍事

北方 四島 の帰結。
ロシアのプーチン大統領の訪日時期は、来春になる。
北方領土問題や経済協力の協議など準備にさらに時間をかける必要があると判断した。
ロシアのラブロフ外相は来年1月にも日本を訪れ、安倍晋三首相や岸田文雄外相と大統領の訪日準備のために会談する方針を固めた。
プーチン氏の来日の予定は再三、延期されている!
豪腕の彼の1言なら、即決されることだ。
矢張り「北方 四島」が来日阻害の
問題に成っているのか?
ロシアでは択捉島にインフラの投資をして自国領をアピールしている。
全く返還の意思は感ぜられない。
だから、北方 四島の返還に何らかの回答をせざるを得ないことが、訪日を避けているのでは?
日本でも
 北方 四島の返還を叫ぶ人は少数では?
国民の多数はその位置からすでに関心外では!
戦後70年が経過し未だに未返還では既定が現実では?

*外務省の見解を提示する。これが政府の主張である。

日本はロシアより早く、北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航した。
徐々にこれらの島々の統治を確立。
それ以前も、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もない。
1855年、日本とロシアとの間で全く平和的、友好的な形で調印された日魯通好条約(下田条約)は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものだった。
しかし、第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領した。
当時四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、1948年までにすべての日本人を強制退去させた。
それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いている。
北方領土問題が存在するため、日露間では、戦後65年以上を経たにもかかわらず、いまだ平和条約が締結されていない
 日本の基本的立場

 北方領土は、ロシアによる不法占拠が続いているが、日本固有の領土であり、この点については例えば米国政府も一貫して日本の立場を支持している。
政府は、北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するという基本的方針に基づいて、ロシア政府との間で強い意思をもって交渉を行っている。
 北方領土問題の解決に当たって、我が国としては、北方領土の日本への帰属が確認されるのであれば、実際の返還の時期及び態様については、柔軟に対応する、
北方領土に現在居住しているロシア人住民については、その人権、利益及び希望は、北方領土返還後も十分尊重していくこととしている。
 我が国固有の領土である北方領土に対するロシアによる不法占拠が続いている状況の中で、第三国の民間人が当該地域で経済活動を行うことを含め、北方領土においてあたかもロシア側の「管轄権」に服したかのごとき行為を行うこと、または、あたかも北方領土に対するロシアの「管轄権」を前提としたかのごとき行為を行うこと等は、北方領土問題に対する我が国の立場と相容れず、容認できない。  
日本国政府は、広く日本国民に対して、1989年(平成元年)の閣議了解で、北方領土問題の解決までの間、ロシアの不法占拠の下で北方領土に入域することを行わないよう要請している。
 政府は、第三国国民がロシアの査証を取得した上で北方四島へ入域する、または第三国企業が北方領土において経済活動を行っているという情報に接した場合、従来から、しかるべく事実関係を確認の上、申入れを行ってきていく。

 


4-9 普天間

2016年04月18日 | 軍事

日本の領土である。しかし、わが国の主権は及ばない!
沖縄に米軍が駐留していることの是非は2国間の問題でここで論ずることは棚上げにして「普天間」問題を考えたい!
沖縄に上陸した海兵隊は本土攻撃に飛行場が戦略的にも必要と県民が退避して、無人の普天間の荒野に着目しこの平野に造成を計画。短期にブルトーザーの土木力で建設した。
戦闘的に使う事は無かったが、基地としては有効な存在となる。地上戦闘が」終焉しこの地で住み、農業に従事していた県民は旧知に帰るもその地が米軍の基地になっているのでoff limit で立ち入れない。政府と交渉し占拠された地は政府に借り上げられ地代は政府から支払われる。その地を利用するのは米軍である。之で「軍用地主」が発生した。
しかし、軍用地を囲む鉄柵の外は旧の地主の所有地で、生活に便で、ノスタルジャのある人々は基地を取り囲むがごとく生活その地帯を基盤となした。
住民が増えることで、商店街・役場・学校等も整備された。
また一方、米軍人相手の商店も展開された。
自分の都合で飛行空域で生活の基盤とした住民は「米軍の飛行機が離着陸するのは、騒音・排気ガス・危険性を伴う。基地を住民の迷惑に成らない地帯に移設せよ!!」と声を上げた。
人間の自己都合による勝手な意見だ。
しかし、米軍も危険性を認識し、日米で協議し「辺野古」の米軍のキャンプ地の沖合いに海岸を埋め立てし滑走路を作ることで合意した。
だが此処でも住民の反対を受け、飛行場は未だに建設されていない!
今の尾長知事は選挙で「辺野古を含む県内移設には反対で当選した。
建設に付いては日本政府と合意できず、お互い訴訟となり、判決で「両者の意見交換」で合意を得べく勧告を受け
「意見開陳をしているが、真っ向から反対意見では合意はむつかしい!
普天間の危険性が認識され、移設で合意されてから数年が経過。重大な事故は起きていない!
この侭の膠着状態が続くとますます基地の継続飛行が常態化するだろう!
そして、皆の懸念する危険性は現実性があるのか?
PS
大阪の伊丹空港は近畿圏の産業隆盛で周囲が宅地化し飛行の危険性が問題化し、関西空港が建設された。伊丹空港の利便性を考慮し、国際便は関空に、国内便は伊丹でオペレートされ、両空港共に繁栄を極めている。
伊丹の危険性を訴える声は聞かない!
普天間も同様なケースでは?

 


4-6 海自鹿屋 事故

2016年04月09日 | 軍事

「空自機 山避けきれず衝突」の見出しで、新聞記事が出る。
「今どき装備の備わった軍用機がこんな事故を起こすなんて?」と思った。自衛隊機は如何なる飛行障害にも負けないことと想像していたから!
想起すると昭和20年(終戦)6月に海軍の爆撃機が同じような事故で山中に激突したのだ!
(この事についてはblogに記載済み。復習すると)
海軍攻撃第704飛行隊は鹿屋を基地として沖縄の米軍の飛行場を夜間爆撃で攻撃していた。
夜中の12時に爆弾・燃料を満載し飛び立つのだ!
之では自重が重く、なかなか離陸・高度が取れない。
そこで悲劇が起こった!
離陸後の誘導コースを旋回中に山に激突。飛行機・乗員は破壊された!後日に我ら同僚が麓に白木の墓標を立てた。
無人地帯だったので、住民に犠牲者は出なかたった。
今起きた事故とそっくりだった!運命の廻りに驚く。
当時は無線技術も幼稚だったが、今は格段の装備だろう。
今回の事故の空自飛行点検査機は鹿屋基地を周囲10キロで目視で確認する有視界飛行をしていた。
700㍍程で飛んでおり、高い山は上昇し避ける予定。
「雲が低く山を避けきれず衝突」
しかし、今時にもパイロットが雲が垂れ込めている、山地を
有視界飛行をするのか?と先の戦争を思い出した!!
当時は夜間飛行もすべて、操縦員の感と経験による
目視飛行だった!
今は計器によるから、安全第一な軍事的飛行だと考えていた!
鹿屋の周囲の飛行空域は一定の範囲だから今回の事故の小山も70年前と同じ所だろう。同様な運命と思う!




4-1 春来る!

2016年04月01日 | 軍事

昨日の「高校選抜野球の決勝戦で、「松山商vs智弁」の2強豪が争った!
近頃稀有の名勝負。両者ともに1点が入らぬ。延長戦で後攻の智弁が、地の利を生かし、ランナーを置いて、大飛球で1点を勝ち取り勝利を勝ち取った!

体感では温暖の比較は困難だ。老人には3月は寒い!
それで、過ごして、3月は去った!!

エイプリルフール
April Fools' Day とは、毎年4月1日にはをついても良いという風習のことである。
日本語では「四月馬鹿」「万愚節」「愚人節」
世界的に通じるジョークだと思っていた。
職場でも1時、流行ったが!が最近ではこのジョークは聞かなくなった。
これも米国からの文明で、日本の文化には定着しなかったのか?

気象庁では今年の3月は暖かかった。桜の開花も平年より5日早かった。と述べている。3月中は暖かい日も有ったが、冬の寒さは脱していなかったと体感していたが!
気温は例年をオーバーしていた様だった!
年々老いる身には少しの高温は、寒く感ぜられるのか!
昨日・今日と陽射しは暖かく、来春を感じさせられる!
体感は未だし。ここらでは、桜の開花は未だし。
しかし、気候は日に日に暖かくなるし、冬の寒さを懸念する要は無い!
4月は旧暦で卯月(うづき)
卯月の由来は、卯の花が咲く月「卯の花月。
英語のAprilはラテン語のAprilis。ギリシャの女神のエトルリア名Apruに捧げられた月。
__________

3月のアクセスは9087で、前比144%でした。16項のUP。
この項で掲載累計が1650となりました(プロバイダーの記録。事績は少し上積みさる)
目標達成まで後350項となる。先が読めた感じだ!
日頃のご愛読に感謝し、ご感想をコメントしてください!

 

 

 

 


9-10 2-26 事件

2015年09月17日 | 軍事

この事件は前の2稿に連なる。
相沢裁判が結審のころ、
近衛歩兵3連隊が満洲に移動予定だったので東京に有る歩兵1・3連隊との陸軍皇道派青年将校国家改造を目指し1483名の下士官・兵の陸軍部隊を率いて「昭和維新」と称して昭和11年2月26日未明に政府中枢を襲った反乱,クーデターを試みた事件(号外が出て、読んだ記憶はある)

皇道派の影響を受けた一部青年将校かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すと考えていた。
(先に皇道派の首脳の真崎教育総監が更迭され、後任に渡辺錠太郎中将=非皇道派が就任。その意趣返しに渡辺が事件の一目標にされ銃殺されたのはご不運だった。渡辺閣下の扁額が有る)

彼らはこの考えのもと、決起、その上で、軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。
昭和天皇は軍を私物化し、重臣を殺害した不法行為にお怒りになる。「反乱軍を鎮圧せよ」とご下命になる。
と政府は、彼らを「叛乱軍(反乱軍)」として武力鎮圧を決意し、包囲した。
原隊復帰の奉勅命令が出され
投降を呼びかけた。
叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。事件の首謀者は銃殺刑に処された。
以降皇道派は1掃され、統制派が軍を牛耳る。先頭に居たのが東條英機中将であった。
以降陸軍は
対米英戦を計画、大東亜戦に進む。

 


9-9 相沢三郎 陸軍中佐

2015年09月14日 | 軍事

国家改造を狙う、 相沢三郎 陸軍中佐。(1部敬称は省略)

本籍は宮城県仙台 旧仙台藩伊達藩士 
福島県白河で生誕。一関中学(現 岩手県立一関高等学校)
仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校、第22期。
軍人としては質素にして、常に綿服をまとい、一見古武士の風格があり、
上官には恭敬をもって仕え、
部下には慈愛をもって臨み、
至誠至忠、その言行は模範的であった。
他人に対しては丁重、慇懃であり、皇室や国歌に関すること以外は、人と論争したことがなかった。
性格は気真面目・直情・朴訥=無口 豪放磊落。

趣味は音楽オルガン。身長は173cm.

剣道四段銃剣道の達人。 
陸軍戸山学校(体育)教官に就任する。陸軍士官学校付に異動。
下りて、陸軍中佐に進級。歩兵第41連隊付となった。次いで
台湾歩兵第1連隊付で台北高等商業学校配属将校の辞令。

日本陸軍においては国家総力戦を戦い抜くため、統制経済による高度国防国家を構成しようとしたのが「統制派」
皇道派」は
青年将校等と国家改造(昭和維新)を目指し。
「統制派」と対立した。
「統制派」この
皇道派を一掃しようとした。
永田は出身地域による部内の藩閥の構造を憂慮。
最後に残った長州閥が残存。この藩閥の解消を図る。
永田は「何よりも軍の統制」を重んじた。
それで、中央に位していた皇道派の中軸を更迭。
真崎総監の更迭も永田の画策と皇道派から恨まれた、
折も折り皇道派の相沢が陸軍省に到り、一番尊敬していた山岡整備局長を訪ね、談話中に給仕を通して永田少将の在室を確かめた後、
軍務局長室に闖入して直ちに軍刀を抜いて永田鉄山軍務局長を切りかかった。永田は椅子から立ち上がり数歩下がり右に避けようとしたが、背後を切られる。

在室していた。新見大佐は相沢の襲撃を防ぐように、永田をかばったが、相沢に斬りつけられ、重傷を負った
永田は更に、机を迂回し避けようとする。
相沢の鋭利な刃が永田の左背部を強く突いた。刀を引き抜くとき多量の鮮血が噴出す。相沢も左手の指を切る。
致命傷を与えることができず、とっさに左手で刀身を持ち銃剣刺突の要領で永田を刺した。
尚も、永田は立ち上がり数歩歩くが倒れる。相沢は永田を仰向きにして、左コメカメ・右頸部にとどめをさした。

新見大佐は重傷を負ったが軍事課員室に行き「局長室が大事だ」と叫んだ。軍事課員は局長室になだれ込む。そこで思いもかけぬ光景が広がっている。永田を抱き起こすが瀕死の重傷である。出血がひどく、心肺停止。
相沢は永田を惨殺した直後、左手の傷は出血しているでハンカチで縛り、医務室へ行く。

憲兵隊が急行して来た。憲兵は執刀者は医務室に行ったようだと聞き向かう。そこに将校姿の不審な男を見る。「憲兵ですが」と声を掛ける。「憲兵に用は無い」と問答。
憲兵は相沢の左手の出血を見て傷の手当を口実にし病院に行こうと告げ車に乗せる。
相沢は「向かう道が違う」と激怒したがそのまま憲兵司令部にむかった。
そこで、相沢の左手は8針縫う応急処置がなされる。

 第1師団軍法会議に於いて死刑判決が下された。
代々木衛戍刑務所内で銃殺刑に処された。

相沢は「永田に天誅を加えた」と公言したり、憲兵から「これからどうする」と聞かれ「さあ任地へ行くべきだろう」と答えたため、事件当時精神に変調をきたしていたという考えもある。

処刑の時、相沢は『目隠しはやらないで下さい。武人の汚れだから、私に限りその必要はありません』
『それでは射手が困りますから』といへば
『射手が困る、それではやりましょう』と従順に目隠しをし、
『私は外に出るのだと思っていましたが、この中でやるのですか』といって悠々刑架に就き、平然として少量の水を呑み、執行を受けたのである。

これから、2・26事件に進行する。これは、次項に掲示。

(相沢さんとは同県人。「豪放磊落な武人」として畏敬していた。
三男が出生した時にそれに肖る様に「三郎」を借名した)

 

 


9-8 永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」

2015年09月12日 | 軍事

昭和陸軍「運命の男」永田鉄山 早坂 隆 著 

昭和10年8月12日 に号外が出た。曰く

「陸軍省の永田軍務局長が執務中に相沢中佐に惨殺さる」
この事件の号外のことは微かに覚えている。
事件の概約は歴史物で読んだことは有った。
これで詳細な記録物が出版されたので興味深く読んだ!
永田中将の経暦の概略。
長野県諏訪郡上諏訪町本町(現・諏訪市)出身。
この地では、門柱に使う良質な「鉄平石」が出る。のが「鉄山」の命名の謂れ。
明治31年 東京陸軍地方幼年学校入学。
次いで
陸軍中央幼年学校を2位で卒(ドイツ語を専修した)
明治37年10月 - 陸軍士官学校卒業(16期首席)
5年間の連隊勤務を終え。陸軍大学校に入学。ここも2位で卒業。
教育総監附勤務 ドイツ・ デンマーク・ スウェーデン駐在。
スイス大使館附武官。
参謀本部附。 教育総監課員。陸軍大学校教官(兼任)
軍事課高級課員。
整備局動員課長。陸軍省軍事課長。
少将に昇進。参謀本部第2部長。
(昭和9年)3月5日- 陸軍省軍務局長。
(昭和10年)8月12日 - 相沢三郎中佐に刺殺される。
中将に昇進。

軍務官僚として常に本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される秀才だったが、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に巻き込まれる。
彼は統制
の中心人物だった。
_______________________

陸軍では健軍以来、明治維新の功績で出身地による派閥が出来た。
日月の経過でこの区分別も解消されたが、長州閥(山口県)が独り残った。山縣有朋が主宰。これも消滅させられた。その後2つの閥が発生。
* 皇道派(こうどうは)
天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した。名称は主宰の荒木貞夫が軍を「皇軍」と呼んだ事による。
*統制派(とうせいは)
国家革新を企図していた。皇道派青年将校と異なり、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。
統制派皇道派と対立した。皇道派の真崎教育総監の更迭の経緯。
昭和10年7月陸軍の三長官(林銑十郎陸軍大臣・閑院宮参謀総長・
 
真崎甚三郎教育総監)会議で林大臣が真崎教育総監が過激な皇道派の首脳であるから、辞職を迫った。しかし、真崎は「三月事件の首脳の永田と之を重要する林大臣」の辞職を迫る。
これに対し閑院宮参謀総長が「軍の総意は貴職の辞任である」と一喝された。
これで、真崎総監の更迭が決まる。
皇道派は首脳の真崎が軍の中枢から外れたのは永田の画策によると「この更迭を操作したのは永田だ」と決め付けた。
これが「相沢三郎中佐に刺殺」事件に連なる。
「相沢事件」に付いては詳細を次項に記載。


9-4 歴史認識

2015年09月07日 | 軍事

中国共産党が『戦勝70周年」と祝っている。
どこの国に勝ったのか?
本は満州事変以来日支戦争で戦って来た。しかし1度も負けたことはない!
青島・天津・北京・徐州・上海・南京・武漢 日本が戦勝し占拠した地。何れも蒋介石の政府・国民党軍との戦争。

第八路軍(中国共産党軍)=現在の中国人民解放軍とは戦闘はしていない。
戦っても第八路軍は“
鎧袖1触で日本軍の敵では無かった。ヤルタ会談でも蒋介石総統が支那代表で出ている。
大東亜作戦が始まって、外国の租界は廃止された。香港・マカオも日本が占拠して支那に返還された。
太平洋戦争で日本が敗北し支那に駐留していた日本軍は自ら武装解除した。蔣総統は「暴に対し、暴にて報ゆる勿れ」との蒋介石の戦後捕虜取扱い方針だった。
それで、軍人・居留民が安全に帰国された。

第八路軍(中国共産党軍)と国民党軍との内戦では勝利。
そして今の中共政府が独立を宣言した。
1方国民党政府は台湾に逃れ、ここで中国の正統政府を確立した。
台湾は日本による経営で社会インフラ・島民の教育向上で容易に新政府が確立できた。
日本に対し怨嗟の声は聞かない!
______________________
鮮政府軍と日本は戦闘をした事は無い。
朝鮮半島で軍を展開し戦闘はしたが、これは「清国・ロシアが朝鮮に侵入、植民地化しようと試みた。
その意図道理になると「日本の防衛危機」になるので日本軍は朝鮮に上陸、武力でこれらを朝支国境外に追放した。
これが日清・日露の戦争だった。
この防衛が無ければ朝鮮は何れかの属国になっていただろう!
日本と朝鮮とは外交交渉で同一国に成ったので、日本が朝鮮を侵略、統治したのでは無い!(念の為)
各国民は自国の歴史を学び、認識すべきだ!


9-3 中国人民軍のパレード

2015年09月05日 | 軍事

中国で記念式典が行はれて、人民軍が北京の天安門前広場で1万2千人の陸軍の兵士たちによる行進を展示した。

式では先ず70発の礼砲が鳴らされ、国旗が掲揚された。
それに戦車やミサイル、戦闘機などの兵器が披露された。
部隊の分列行進がTVで放送された。
お見事だった!多くの兵士が並んで横一列で行進したが定規で計った様に整然としている。
それが多くの列で1団が構成。
部隊が凸凹なしに横一列で行進するのは大変難しい!
先ず構成員の身長の差異だ。それにより歩幅が違うので一列に差がでる。
女性団は身長170㌢で揃えた。これで体位がスマートで歩幅が1定する。
練習中で列の規制に糸で計っていた。「一糸乱れぬ」事だ。
普通的には長い棒や竹を使う!
日本軍は4列の縦長での部隊行進になった(ノモンハンの戦訓によるとのことだった)
日本人の脚は膝がくの字で伸びきっていないのでこの様な分列行進は見劣りがするのでは?軍隊に在隊中では何度も行進の練習をさせられた。苦痛な訓練だった。
西欧人は脚を伸ばして歩く。これが彼らの自然体!
モンゴル系の人種は脚がくの字で伸びきっていないのでは?
今度のパレードでは中国兵士の膝は伸びていたようだ。
空からの写真では一軍団が縦横斜めが綺麗に揃っていて正確な正方形の集団を形成している。を見る。
世界中でパレードには小銃を担っているが、現実的では無いのでは?
ミサイル戦の時代では!小銃の射撃範囲は 500㍍から1千までだ。この間で野戦をする大戦争が起きるだろうか?
そして速射できる銃の弾の補給は如何に為すのか。
戦闘の様変わりだ。

 


7-5 困った~

2015年07月07日 | 軍事

海上自衛隊の1等尉官が自宅に放火し子供が焼死した。
詳報で大分杵築市の自宅から下関の小月基地に通勤していたが広島の海江田の基地に転勤。単身で赴任。「金帰月来」をしていた。
転勤・移動で精神的に不安定になり「死にたい」と漏らしていたとのこと。認知症だったのか?
1等尉官は Commanding  Officer の立場だ。

こんな人は“こまったー 指揮官〟だ。
この様な士官の居る日本海軍と共同で作戦する外国海軍が有るか?そもそも、この体制で戦争に勝てるか?
安部さんが「集団的自衛」法案を国会で決めようと焦って居られるが、先にお見合いする相手に「集団的に、やってくれるか?」とお聞きされるが良い!