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9-8 永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」

2015年09月12日 | 軍事

昭和陸軍「運命の男」永田鉄山 早坂 隆 著 

昭和10年8月12日 に号外が出た。曰く

「陸軍省の永田軍務局長が執務中に相沢中佐に惨殺さる」
この事件の号外のことは微かに覚えている。
事件の概約は歴史物で読んだことは有った。
これで詳細な記録物が出版されたので興味深く読んだ!
永田中将の経暦の概略。
長野県諏訪郡上諏訪町本町(現・諏訪市)出身。
この地では、門柱に使う良質な「鉄平石」が出る。のが「鉄山」の命名の謂れ。
明治31年 東京陸軍地方幼年学校入学。
次いで
陸軍中央幼年学校を2位で卒(ドイツ語を専修した)
明治37年10月 - 陸軍士官学校卒業(16期首席)
5年間の連隊勤務を終え。陸軍大学校に入学。ここも2位で卒業。
教育総監附勤務 ドイツ・ デンマーク・ スウェーデン駐在。
スイス大使館附武官。
参謀本部附。 教育総監課員。陸軍大学校教官(兼任)
軍事課高級課員。
整備局動員課長。陸軍省軍事課長。
少将に昇進。参謀本部第2部長。
(昭和9年)3月5日- 陸軍省軍務局長。
(昭和10年)8月12日 - 相沢三郎中佐に刺殺される。
中将に昇進。

軍務官僚として常に本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される秀才だったが、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に巻き込まれる。
彼は統制
の中心人物だった。
_______________________

陸軍では健軍以来、明治維新の功績で出身地による派閥が出来た。
日月の経過でこの区分別も解消されたが、長州閥(山口県)が独り残った。山縣有朋が主宰。これも消滅させられた。その後2つの閥が発生。
* 皇道派(こうどうは)
天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した。名称は主宰の荒木貞夫が軍を「皇軍」と呼んだ事による。
*統制派(とうせいは)
国家革新を企図していた。皇道派青年将校と異なり、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。
統制派皇道派と対立した。皇道派の真崎教育総監の更迭の経緯。
昭和10年7月陸軍の三長官(林銑十郎陸軍大臣・閑院宮参謀総長・
 
真崎甚三郎教育総監)会議で林大臣が真崎教育総監が過激な皇道派の首脳であるから、辞職を迫った。しかし、真崎は「三月事件の首脳の永田と之を重要する林大臣」の辞職を迫る。
これに対し閑院宮参謀総長が「軍の総意は貴職の辞任である」と一喝された。
これで、真崎総監の更迭が決まる。
皇道派は首脳の真崎が軍の中枢から外れたのは永田の画策によると「この更迭を操作したのは永田だ」と決め付けた。
これが「相沢三郎中佐に刺殺」事件に連なる。
「相沢事件」に付いては詳細を次項に記載。


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