B・二九破壊一大特攻「剣作戦」発動せず
昭和十八年四月、中学(旧五年制)を四年終了した。
大東亜戦争の真っ只中、純真な愛国心・戦争の勝利を期して、第十二期海軍飛行予科練習生を志願。
三重海軍航空隊に、海の雛鷲の第1歩を印した。
以降、上海・豊橋の部隊で飛行機搭乗員としての猛訓練を経て昭和二十年初頭に木更津基地の攻撃704飛行隊に配属された。
一式陸上攻撃機(基地より飛び立って侵攻する敵艦を洋上で攻撃する、丁度万年筆のような形をした海軍の大型機で乗員は七~十名)の部隊であった。
硫黄島・沖縄作戦に参加。沖縄戦は六月に終了した。
昭和二十年になるとアメリカ空軍B-二九爆撃機は作戦どうりに、国内の軍事基地・軍需工場・一般市民家屋と空襲を成し日本は防衛組織・生産体制共に多くの被害を受けた。
またB-二九の性能が非常に良いので、対空火器・邀撃戦闘機もその防御態勢には効果が挙げられず、敵を空中では撃墜出来なかった。
そこで、サイパン・テニアン・グアム等の基地の飛行場を夜間奇襲し強行着陸をして地上でB-二九を破壊する作戦が計画された。マリアナ在駐のB-二九を全部爆破すればいかなる米国生産力と言えども直ぐには飛行機の補給が出来ず、その間に日本は時間を稼いで作戦と生産の調整を計ろうとの計画であった。
六月に沖縄への作戦参加中の攻撃七〇四飛行隊は九州から三沢基地に移動。他の隊の参加を得て一式陸上攻撃機三十機が揃い呉第一〇一特別陸戦隊三〇〇名も来隊し「第一剣部隊」が編成された。また「第二剣部隊」は千歳基地で三十機の陸攻と陸軍落下傘部隊三〇〇で結成された。
以下 次号
この事についてはカタゴリー「軍事』の項で、述べています。ご参考に
剣作戦は「日曜日特集」として掲載します。
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