ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

参詣

2014-10-25 17:18:23 | Weblog
大学で中国文学を専攻した。中国留学もした。
いまでも中国語を話す。仕事でも中国と関係がある。
ついでに、ついこの前まで3年間中国で暮らしていた。

と言うと、たいていの人は私のことを「中国が好きな人」と思うのだが、
最近はきっぱりと「私は中国が嫌いです」と言うようにした。中国人にも。

正確に言うと、中国から漢民族がいなくなったら、きっと中国が好きになるだろう、という感じなのだが、
なかなかうまく表現できないので、中国が嫌いと、シンプルに表現している。

私が大学で中国語をやりたいと言ったとき、母は高校生の私にこう言った。
「たぶん、あなたが思うような中国人は、いまの中国にはもういないし、
 あなたの興味がある中国は、もう中国に残ってないわよ」と。

母は、もちろん中国には行ったことがなかったわけだが、この的中率、すごい。

それでも勉強したいという私のために、母は身を粉にして働いた結果、倒れたわけなので、
私はずっと中国が嫌いとは言えず、なんとか好きになろうと思っていたのだが、
1992年に初めて中国に行って以来、そして今日まで一貫して、やっぱり中国を好きではなかった。

先日、母の位牌の前で、「ごめんなさい。お母さんの言った通りでした」と報告し、
非常に肩の荷が軽くなったところだ。
嫌いなものは嫌いでしょうがない。

まあ、何と言っても、母が最終的に彼女自身を納得させた理由は、
「中国語ができれば、これから先、仕事には困らないんじゃない?」だったから、
仕事で使っているので、許してくれ。

母は、サルトルやマルクスを読んだ上で、阿呆らしいから毛沢東語録は読まないと言い、
その後、万葉集に戻った。
中国の思想家では、韓非子を「かんぴー」と黄色い声で呼び、漢文を白文で読めて、
東大寺でばったり会ったアメリカのバックパッカー女子に、
奈良時代の歴史と天皇を中心とした日本の歴史について、英語で説明できちゃう人だった。
これで高卒だったんだから、いったいどんだけすごいんだよ。

母と一緒に小学生の頃に見たドキュメンタリー映画「東京裁判」。
あの証言台に立った愛新覚羅溥儀の姿を見て、嘘をついてる。この人の言葉を学ばなければ、
とさえ私も思わなければ、
私も中国語をやることはなかったわけなので、責任の一端は母にもあるし、
私も30年かけて一巡して戻ってきたから、まあいいか。

今日は、中国からの帰国後、はじめて靖國神社に参詣した。



ここの境内に入ると、いつでも背筋が伸びる。



ピシッと美しく二礼、二拍手、一礼ができると、気持ちがいい。

そして約15年ぶりに、遊就館へ。
そう。私たちの国は、大東亜戦争と呼んだ。



零式艦上戦闘機。

 

リニューアルしてから初めて訪れたけど、訪れている人には、若い人も結構多かった。
高校生くらいの子供と両親、または若い女性一人、あとが白人が今日は多くて、
最近増えているという、中国人民と朝鮮人は少なかったと思う。

もともと明治維新の際の烈士を祀ることから始まり、
国に殉じた人を英霊として祀る神社となった靖國神社。

おかげさまで、かろうじて、いま日本は平和です、と報告するとともに、
改めて中国大陸の動乱に翻弄されているのが日本なんだと思った。
植民地時代、赤い時代、そしていまの拝金主義時代。

この百年の中国大陸の地図を見ると、ここ2年くらいで訪れた中国の風景が思い出される。
日露戦争時代の旅順や奉天。上海事変の際のクリーク。
敵も味方も、多くの人が亡くなった。
そして、太平洋の海。絶対国防線。

A級戦犯の写真が、他の英霊と分けて展示されるようになって初めて行ったけど、
東京裁判史観を脱する意志を感じるといえば、感じられた。
パール判事も祀られていたし。



そして、靖國神社には、軍犬と軍馬の像もあり、
その前でも手を合わせる日本人がたくさんいた。



いまもむかしも、人間を消耗品として扱う上司というのはいる。
別に昔の日本人が悪かったわけでもなければ、
アメリカナイズされたいまのカタカナ言葉多用のサラリーマンが先進的なわけでもない。

私たちは、何も変わっていないし、変わりたくても、変われないのだ。