(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

『テロ』(追補)

2020-01-19 | 読書
『テロ』(追補) 数日前に、記事を書きましたが、今ひとつスッキリとしないものを感じていました。リライトしましたので、ご覧ください。


 シーラッハの戯曲「テロ」の主題は二つあります。きわめて短い時間のうちに意思決定を迫られた時、どう判断するかということ。及び法廷で裁かれた時に有罪とするか無罪とするかの二つです。。それぞれの意思決定について、本編で触れなかったことについて補足しておきます。

 フランスの小説家プロスペル・メリメ(小説「カルメン」で知られる)は短編「マテオファルコーネ」を書き、きわめて難しい局面でおのれの息子を殺さざるを得なくなった父親のことを書いています。

 舞台はコルシカ島のある村、マキ。マテオはそこから近い所に家をもっていた。彼には10歳になる男の子がいた。マキ、司法権と事を構えたものの逃れていくところ。そこに逃げ込んだものは匿ってやることになっていた。ある時、おたずねものが逃げ込んで、一人息子のフォウルトゥーナに銀貨を与え、枯れ草の山の中に匿ってもらった。そこへ憲兵が来て、あれこれ尋ねるがフォウルトゥーナは言を左右にして教えない。隊長が銀時計を欲しいだろうと見せびらかすと、とうとう誘惑に負けて、枯れ草の山を指差した。おたずねものは見つかって縛り上げられる。そこへマテオが戻ってきた。マテオは隊長との話のやりとりから、自分の息子が掟を破ったのを感づいて激怒した。おたずね者は引き立てて行く時、”裏切りものの家"とののしる。それを聞いて、マテオは息子を銃殺してしまう。可愛い息子を。”裁きをつけたのだ"、と言って。 ちなみにコルシカ人は負けん気で気難しく、信念を持っているひとが多いといわれています。この話に出てくる、「裏切り」とは単に味方を敵に売り渡すとこだけではなく、仲間を否定することであるとも考えられます。

 私自身、どのような判断をくだしたものかと悩みました。今でも。息子を助けることは容易ですが、それでは己の自己規律に反します。みなさんなら、どうされるのでしょうか。


 次に二つ目の主題、有罪か無罪かについての一例をご紹介します。(写真は2001年9月11日のニューヨークでの同時多発テロ)。イスラム過激派のアルカイダが四つのテロを行い、死者はおよそ3000人。その時、ケープコッドにある空軍基地からジェット戦闘機がスクランブル発進しましたが、状況の把握が不十分で一旦、待機。再発進しNY上空に達したときはすでに、衝突が起こっていました。しかも、戦闘機には攻撃の権限はなかったといわれています。しかし、もし戦闘機が間に合って、トレードセンターのビルに衝突する前に、その突入の可能性を察知し、ミサイル発射して撃墜したら、そのパイロットは法廷で有罪をいいわたされるのでしょうか。

 ところで既定の法律が正しいかどうかについて、もと東京地検特捜部に身をおいていた郷原信郎氏が『法令遵守(じゅんしゅ)が日本を滅ぼす』という本の中で、時代にそぐわなくなった法令についての問題点を提起しています。詳しいことは省きますがが、”大切なことは細かい条文がどうなっているかなどと考える前に、人間としての常識にしたがって行動することである。本来人間が持っているはずのセンシティビティというものを逆に削いでしまっている、失わせてしまっているのが、今の法令遵守の世界です、と。”


 また以前に「逆境に生きる」と題して当ブログでアメリカの第3代大統領であるトーマス・ジェファーソンの言葉を引いたことがあります。

 ”"I am not an advocate for frequent changes in laws and constitutions , but laws and constitutions must go hand in hand with the progress of the human mind.As that becomes more developed, more enlightened, as new discoveries are made,
new truths discovered and manners and opinions change, with the change of circumstances, institutions must advance also to keep pace with the times. We might aswell require a man to wear still the coat which fitted him when a boy as a civilized society to remain ever under the regimen of their barbarous ancestors"

 すこしかんたんに言えば、法や憲法は人間の知性(人間の心)の進歩と共に、また時代にあわせて進歩しなければならぬ、と言っているのです。”

 そしてみなさんご存知のように法律に成分法と慣習法(不文法)の二つがあります。日本はヨーロッパ大陸の法系に属していて文字で書きあらわされ文書の形をとっています。これに対して英米法系の諸国では裁判所の判例の集積が国法の基幹的部分を構成しており,判例法主義または不文法主義をとっている。慣習法ともいわれます。日本の法律では、明治の頃に制定されたものが数多くあって、時代にそぐわないものが、未だにそんざいしています。『テロ』の事件は、ドイツで起こったものですので、成分法での判断に委ねられます。ただし、この事件が起こったのは2013年、アメリカでの同時多発テロは2001年のことですので、そのあたりの影響が入って修正されているかも知れません。それでなければ、今回のようなテロリストによるハイジャックと、そこから起こりうる爆発・衝突事故はふせぐことが出来ないでしょう。

それからアメリカで、ドイツのテロと同様なケースがあったとしたら、おそらく無罪あるになるのではないでしょうか。テロリスト乗った飛行機にアメリカ人乗客がいたとしても。

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 少し前置きが長くなりましたが、私ならば、ハイジャック機はためらわずに撃墜します。また、当然無罪を主張します。ここで、私の全くの私見ですが、一つ付け加えさせて頂きます。
「法廷での判断は法律によります。しかし、その法律というものは、そもそもそれまでの人間の判断の積み重ねによって出来てきたものです。成分法であれ、慣習法であれ。したがって、その元になる判断基準や背景が変われば、当然法律も変わらなければなりません。それをその侭にしておくことは、社会としての怠慢以外の何ものでもありません。したがって、今回の事件でドイツの法廷で一旦有罪を宣告されたとしても、その後よってきたる法律を修正し、追加の救済措置をとるべきではないかと愚考いたします」。

また、”陪審員裁判で採決すること自体が間違っている”とのご意見を頂いています。そうかも知れません。あまりテロに関する背景や法律論になじんでいない一般庶民にとっては困難な取り組みを強いられますし、またその結果が正しいものかどうか、その判断も分かれるでしょう。今回取り上げられた裁判は恐らく州の法廷での裁判であり、国の裁判への控訴審となっていくでしょう。そこではご指摘のように法律専門家の討議に掛けられるでしょう。


 今回の記事(戯曲「テロ」)は、正か邪かを決めるものではありません。みなさんと一緒に考えてみたいというのが趣旨であります。では、海外も含め、大多数の見方はどうなっているのでしょうか。ドイツのエッセイイストであるマライ・メントラインの記事がありますのでご覧ください。


 ちなみにマライ・メントラインさんは、今は日本在住のドイツ人。エッセイイストや通訳の仕事をされています。彼女が紹介した、これまでの結果によると欧米では無罪が優勢、アジアでは互角、日本ではこれまでは無罪が優勢でしたが、2018年1月の公演結果では、初めて有罪が無罪と上回ったとか。


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 ながながとお付き合い頂き、ありがとうございました。








コメント (2)
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