りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

旧東海道散歩  番外編㊸  散歩中に出会ったマンホール その2

2023-04-04 16:42:40 | 旧東海道散歩
静岡県掛川市日坂地区

😀 駕籠に乗る女性と駕籠を担ぐかき。背後には東海道の松も描かれています。

静岡県掛川市
😀掛川城天守」と市の花「キキョウ」

静岡県袋井市
😀 袋井宿は東海道五十三次のちょうど真ん中・・・ということで、中央にあるのは「どまん中ふくろい」のシンボルマークです。周囲には市の木「マキ」がデザインされています。

静岡県袋井市
😀 消防車と消防士が描かれた「防火水槽」

静岡県磐田市
😀 桶ヶ谷沼に生息するベッコウトンボは「市の虫」です。周囲は「水」の文字をデザインにしています。

静岡県磐田市
😀樹齢800年以上の  熊野(ゆや)の長藤
 
静岡県磐田市
😀 みんな大好き磐田市のゆるきゃら「しっぺい」がサッカーをしています。
しっぺいは、見付天神に伝わる霊犬伝説「悉平太郎(しっぺいたろう)」をモチーフにしています。アニメ「ゆるキャン△ 」にも登場しました。

静岡県浜松市
😀 中央に浜松市の市章。周囲は波、ビル,山が描かれているそうです。

静岡県浜松市

😀 旧・舞阪町の町の木「松」が描かれています。

静岡県湖西市
😀中央には旧新居町の旧町章。新居関所、町の木「マツ」、「波」、町の鳥「チドリ」のデザイン。

愛知県豊橋市
😀 朝日の中を出港するフェリーと左側には森、右側にはビル、下の方には人々が描かれています。

愛知県豊橋市
😀 豊橋市といえば「手筒花火」・・・背景には「吉田城」、市の木「クスノキ」、「豊川」の川の流れが描かれています。

愛知県豊橋市
😀 国の登録有形文化財「豊橋市公会堂」「路面電車」。右側には市の花「ツツジ」も描かれています。

愛知県豊橋市
😀 「手筒花火」が描かれた消火栓。

愛知県豊川市
😀 豊川といえば豊川稲荷、豊川稲荷といえばキツネ・・・ということで、中央に「キツネ」が描かれています。背景は「豊川」の川の流れと市の木「クロマツ 」です。

愛知県豊川市
😀 豊川の情報が満載のデザインです。正面奥には本宮山、右奥には豊川稲荷のキツネ、豊川では魚が飛び跳ねています。左側には市の木「クロマツ」と市の象徴「サクラ」が描かれています。

愛知県豊川市

😀 歌川広重「東海道五十三次之内 赤坂 旅舎招婦(りょしゃしょうふ)ノ図」が描かれています。旧音羽町時代のマンホールなのでの左下に「おとわ」の文字が入っています。

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旧東海道散歩 その32-② 見附宿~

2018-08-03 20:29:00 | 旧東海道散歩
左側の道路を進みます。


住宅街を通過し・・・


「池田の渡し歴史風景館」


天竜川では、約1000年前から渡し舟を利用していたそうです。
そういえば、岡部宿で訪れた「西行笠かけ松」は、「西行が天竜川を渡し舟で渡る時、武士が西行に乱暴を働いた」ことがきっかけで起きた悲しいお話しでした。つまり平安時代から渡し舟はあったということですねwink

niko写真や模型で池田の渡し歴史が紹介されています。

天竜川の渡船場は、その権利をめぐって長年争われてきましたが、1573年(天正元年)徳川家康が「天竜池田渡船の朱印状」を出し「池田の渡方」に渡船の独占権を与え、手厚く保護されました。というのは、武田軍との戦いの時、家康の危機を池田の里人が救ったから・・・と云われています。
岡部宿の「白子由来の碑」にもありましたが、徳川家康という人は、恩を忘れない人ですね。自分より身分の低い人であっても、恩返しをする・・・家康の人柄を垣間見ることができます。

1575年(天正3年)徳川家康直判の松板定文(レプリカ)

niko「渡船利用者は、舟が思うように動かなくても船頭等を殴ったり危害をあたえてはいけない、死刑に処す」という禁制が出されました。でもその後、船頭はこの禁制を盾にとても威張るようになってしまったそうです。折角、家康さんが恩返ししたのに・・・仇で返すとはdokuro

明治時代に入ると橋が架けられ、渡し舟は利用されなくなりました。

近くの「行興寺(ぎょうここうじ)」にも立ち寄りました。


平安時代末期、ここの辺りに住んでいた美しく優しい熊野(ゆや)という娘は、見付の国府に赴任した平宗盛に見初められ、都へ上って行きました。
幸せな日々を送っていた熊野でしたが、ある日、母の病の報せが届きます。熊野は故郷へ帰りたいと願いますが、宗盛は愛するあまり離れがたく、聞き入れません。
春、桜見物の席で、熊野は、「いかにせん、都の春も惜しけれど、なれしあずまの花やちるらん」(都も離れがたいが、故郷で命を散らそうとしている母が心配です)と詠み、その心に打たれた宗盛は別れを決心しました。
母娘は、再会が叶いましたが、母の命は長くありませんでした。その後、宗盛の戦死と平家滅亡を聞いた熊野は、尼となり33歳の若さで生涯を閉じました。


行興寺は、熊野が祈りを捧げた庵があった場所です。その庭には母のために熊野が植えた藤の花が、現在も毎年長い花房をつけているそうです。

meromero2樹齢800年以上の長藤。花の房の長さは1m以上にもなるそうです。6本のうち1本は国、5本が県指定の天然記念物に指定されています。

天竜川の東岸河川敷に向かいます。河川敷には天竜川の歴史が紹介されていました。


「池田橋の跡」

niko池田橋は日本初の有料木橋(幅2.72m、長さ765m)で、明治16年から昭和8年まで天竜川に掛けられていました。

「江戸時代の天竜池田渡船」


「天竜川を上り下りした帆かけ舟」


「天竜川渡船場跡の碑」


かつての渡船場を整備した「池田の渡し公園」


天竜川は諏訪湖(長野県)から流れ出る唯一の川で、かつては氾濫を繰り返したあばれ川でした。

人も少なく、静かな公園で一休み。

niko広くて、気持ちの良い公園です。

現代の渡船場。

wink「熊野の長藤まつり」での渡船の再現時に使われるそうです。

歌川広重「東海道五十三次之内 見附 天竜川」

niko朝靄に覆われた天竜川。天竜川の渡船は中洲で乗り継ぐ必要がありました。この浮世絵では中州がメインに描かれています。手前の流れは大天竜、中州の奥は小天竜と呼ばれました。

橋のたもとにある「天竜川治水祈念公園」に立ち寄り・・・


いよいよ天竜川を渡ります。


(つづく)

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