茶色のレンガタイルに従って上り坂を歩いて行くと、幸ケ谷公園にたどり着きます。
江戸時代は、この辺りから(この後訪れる)本覚寺まで一帯が大きな山で、権現山と呼ばれていました。
しかし明治時代にこの山は削り取られ、台場や鉄道用地の埋め立て地として利用されたため、今は大きな山はありません。
💁女性の後ろの山が権現山です。
幸ケ谷公園を少し下ると「洲崎大神(すざきおおかみ)」
「江戸名所図会」で描かれている当時とほとんど変わっていないことがわかります。
神社の前をまっすぐ南へ、第一京浜の辺りが舟着き場だったそうです。
「宮前商店街」旧東海道です。
商店街を抜けると「JR神奈川」駅。
この辺りも権現山の一部でした。
この山が削り取られて・・・・明治5年(1872年)新橋-横浜間に鉄道が開通しました。
坂を登って「本覚寺」へ。
横浜開港当時、このお寺はアメリカ領事館でした。
アメリカ公使のハリスは、日本人の立ち入りを禁じ、庭の松の枝を切り落として星条旗を掲げたり、このお寺全体を白いペンキで塗っったり・・・・
ホワイトハウスにでもしたかったのでしょうか?酷い話しです。今も山門には白いペンキが残っています。
「良泉寺」の住職が、屋根をはがして修理中だから・・・という理由で外国人が宿泊することを断った気持ちもこのエピソードを知って理解できました。
しかし・・・本覚寺は偉かった。発想の転換とでも言うのでしょうか。
「日本で初めてペンキを塗られた建物」と考えて、境内には<全国塗装業者合同慰霊碑>も建立されているのです。
<許す>ということ。<恨まない>ということ。さすがお寺です。
旧東海道を離れて高島山へ寄り道。結構な急坂です。
鉄道用地の埋め立てに尽力した「高島嘉右衛門」が住んでいた場所です。今はビルが乱立していますが、この丘から海を見て埋め立てを指示していました。
旧東海道へ戻り「大綱金毘羅神社」
今はこの辺りに海の気配はありませんが、「金毘羅神社」があることで、かつて海が近くにあったことがわかります。
歌川広重『東海道五十三次之内 神奈川宿』
<東海道中膝栗毛>にも登場するこの場所は、神奈川湊を見下ろすことができる景勝地でした。
この浮世絵に描かれている「さくらや」は、現在の料亭「田中家」の辺りにありました。
「田中家」には坂本竜馬の妻お龍が、竜馬との死別後に仲居として働いていました。
<非常に頭が良く酒を好み、人情深く、客あしらいもうまく>人気の仲居だったようです。
しかし、土佐藩士からは<有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。善悪ともに兼ぬるように思われたり>
と言われ、その気性から竜馬の家族や知人たちからの支援は余りなかったようです。
今の時代だったら・・・活躍できる場所を見つけることができた女性だったのかもしれません。
💁おりょうと龍馬
💁明治時代はこんな感じ。海側から見た神奈川宿。
旧東海道は下り坂となって…
<上台橋>
💁歩いてきた旧東海道を振り返って見たところです。
ここに<関門跡の石碑>が建っていました。
💁東側から見た当時の関門です。
ここから南へ向かって「JR横浜駅」に到着。
16839歩の散歩でした。
(2015.2.11)
江戸時代は、この辺りから(この後訪れる)本覚寺まで一帯が大きな山で、権現山と呼ばれていました。
しかし明治時代にこの山は削り取られ、台場や鉄道用地の埋め立て地として利用されたため、今は大きな山はありません。
💁女性の後ろの山が権現山です。
幸ケ谷公園を少し下ると「洲崎大神(すざきおおかみ)」
「江戸名所図会」で描かれている当時とほとんど変わっていないことがわかります。
神社の前をまっすぐ南へ、第一京浜の辺りが舟着き場だったそうです。
「宮前商店街」旧東海道です。
商店街を抜けると「JR神奈川」駅。
この辺りも権現山の一部でした。
この山が削り取られて・・・・明治5年(1872年)新橋-横浜間に鉄道が開通しました。
坂を登って「本覚寺」へ。
横浜開港当時、このお寺はアメリカ領事館でした。
アメリカ公使のハリスは、日本人の立ち入りを禁じ、庭の松の枝を切り落として星条旗を掲げたり、このお寺全体を白いペンキで塗っったり・・・・
ホワイトハウスにでもしたかったのでしょうか?酷い話しです。今も山門には白いペンキが残っています。
「良泉寺」の住職が、屋根をはがして修理中だから・・・という理由で外国人が宿泊することを断った気持ちもこのエピソードを知って理解できました。
しかし・・・本覚寺は偉かった。発想の転換とでも言うのでしょうか。
「日本で初めてペンキを塗られた建物」と考えて、境内には<全国塗装業者合同慰霊碑>も建立されているのです。
<許す>ということ。<恨まない>ということ。さすがお寺です。
旧東海道を離れて高島山へ寄り道。結構な急坂です。
鉄道用地の埋め立てに尽力した「高島嘉右衛門」が住んでいた場所です。今はビルが乱立していますが、この丘から海を見て埋め立てを指示していました。
旧東海道へ戻り「大綱金毘羅神社」
今はこの辺りに海の気配はありませんが、「金毘羅神社」があることで、かつて海が近くにあったことがわかります。
歌川広重『東海道五十三次之内 神奈川宿』
<東海道中膝栗毛>にも登場するこの場所は、神奈川湊を見下ろすことができる景勝地でした。
この浮世絵に描かれている「さくらや」は、現在の料亭「田中家」の辺りにありました。
「田中家」には坂本竜馬の妻お龍が、竜馬との死別後に仲居として働いていました。
<非常に頭が良く酒を好み、人情深く、客あしらいもうまく>人気の仲居だったようです。
しかし、土佐藩士からは<有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。善悪ともに兼ぬるように思われたり>
と言われ、その気性から竜馬の家族や知人たちからの支援は余りなかったようです。
今の時代だったら・・・活躍できる場所を見つけることができた女性だったのかもしれません。
💁おりょうと龍馬
💁明治時代はこんな感じ。海側から見た神奈川宿。
旧東海道は下り坂となって…
<上台橋>
💁歩いてきた旧東海道を振り返って見たところです。
ここに<関門跡の石碑>が建っていました。
💁東側から見た当時の関門です。
ここから南へ向かって「JR横浜駅」に到着。
16839歩の散歩でした。
(2015.2.11)