旧東海道を進みます。
岡崎の自動販売機を発見!
徳川家康が幼少時代を過ごした「法蔵寺」
江戸時代、(家康公ゆかりの地ということで)大名も馬を下りて、この寺の前を通ったそうです。
参道の入口には、家康公お手植えの松で、家康公が手習いの時に草紙を掛けたと伝わる「御草紙掛松(おんそうしかけまつ)」がありました。
この松は4代目です。
江戸時代、法蔵寺前には立場茶屋があり、醤油味の法蔵寺団子が名物でした。
境内の坂道を進むと・・・新鮮組局長「近藤勇の首塚」
1868年(慶応4年)近藤勇は東京の板橋で打ち首になりました。その首は京都三条大橋にさらされましたが、新撰組同志により密かに奪還されました。生前、近藤勇が親しくしていた京都宝蔵寺の称空義天上人旭専大和尚に供養をお願いしようとしましたが、すでに法蔵寺の第三十九世貫主となっていたため、首はこの地まで運ばれ、葬られました。長い間秘匿とされていましたが、1958年(昭和33年)発掘され改めて供養し胸像が建てられたそうです。
現代の新選組(新選組ファンの方々ですね)も訪問されていました。
新選組同士が近藤勇の首を持ってこの寺を訪れた時もこのような感じだったのかもしれませんね。
石段を上り「東照宮」へ。
東照宮から見た法蔵寺。
旧東海道へ戻り「法蔵寺橋」を渡ります。
「本宿古城跡」
「本宿陣屋跡」
柴田勝家(織田信長の妹、お市の方の再婚相手ですね)の子孫、旗本・柴田出雲守勝門の代官屋敷です。
現在は冨田病院となっています。案内板に旧代官宅が紹介されていたので、敷地内を探してみたのですが見つかりませんでした。後で調べると、病院の隣に建つ古い家が「代官屋敷」だったようです。(個人宅と思い写真撮影は行いませんでした。)
さらに旧東海道を進み・・・
「十王堂跡」
名鉄「本宿駅」に到着!
左下は旧駅舎のレプリカです。地下道には古地図が展示されていました。
13,939歩の散歩でした。
豊橋駅へ戻り、お土産にブラックサンダーを大量購入したのですが・・・電車の中に置き忘れてしまいました。
(2018.04.22.)
岡崎の自動販売機を発見!
徳川家康が幼少時代を過ごした「法蔵寺」
江戸時代、(家康公ゆかりの地ということで)大名も馬を下りて、この寺の前を通ったそうです。
参道の入口には、家康公お手植えの松で、家康公が手習いの時に草紙を掛けたと伝わる「御草紙掛松(おんそうしかけまつ)」がありました。
この松は4代目です。
江戸時代、法蔵寺前には立場茶屋があり、醤油味の法蔵寺団子が名物でした。
境内の坂道を進むと・・・新鮮組局長「近藤勇の首塚」
1868年(慶応4年)近藤勇は東京の板橋で打ち首になりました。その首は京都三条大橋にさらされましたが、新撰組同志により密かに奪還されました。生前、近藤勇が親しくしていた京都宝蔵寺の称空義天上人旭専大和尚に供養をお願いしようとしましたが、すでに法蔵寺の第三十九世貫主となっていたため、首はこの地まで運ばれ、葬られました。長い間秘匿とされていましたが、1958年(昭和33年)発掘され改めて供養し胸像が建てられたそうです。
現代の新選組(新選組ファンの方々ですね)も訪問されていました。
新選組同士が近藤勇の首を持ってこの寺を訪れた時もこのような感じだったのかもしれませんね。
石段を上り「東照宮」へ。
東照宮から見た法蔵寺。
旧東海道へ戻り「法蔵寺橋」を渡ります。
「本宿古城跡」
「本宿陣屋跡」
柴田勝家(織田信長の妹、お市の方の再婚相手ですね)の子孫、旗本・柴田出雲守勝門の代官屋敷です。
現在は冨田病院となっています。案内板に旧代官宅が紹介されていたので、敷地内を探してみたのですが見つかりませんでした。後で調べると、病院の隣に建つ古い家が「代官屋敷」だったようです。(個人宅と思い写真撮影は行いませんでした。)
さらに旧東海道を進み・・・
「十王堂跡」
名鉄「本宿駅」に到着!
左下は旧駅舎のレプリカです。地下道には古地図が展示されていました。
13,939歩の散歩でした。
豊橋駅へ戻り、お土産にブラックサンダーを大量購入したのですが・・・電車の中に置き忘れてしまいました。
(2018.04.22.)
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