「八丁蔵通り」
岡崎市内の旧東海道周辺は、第二次世界大戦での戦火でほぼ焼失してしまいましたが、この辺りは戦火を免れたそうです。
「左江戸 右西京」の道標を通過し、、「八帖往還通り」の緩やかな坂道を上ります。
矢作川を渡る「矢作橋」を渡ります。空を見上げるとグライダーが飛んでいました。
江戸時代は東海道で最も長い木橋(長さ374m)でした。
江戸小唄「岡崎五万石」では、「五万石でも岡崎様は お城下まで船が着く・・・」と唄われていたように、岡崎城は矢作川と乙川の合流地点にありました。水運の基地であった岡崎は、西三河の中心都市として栄えたそうです。
橋の上で振り返ると・・・橋の右側に岡崎城が見えました。
歌川広重「東海道五十三次之内 岡崎 矢矧之橋」
東海道一長い矢作橋と岡崎城が描かれています。橋の上には、京から岡崎へ向かう大名行列・・・この後、徳川家康生誕の地へ入るということで緊張している様子です。
江戸時代の矢作橋は、現在の場所より約80mほど下流にありました。だから岡崎城は橋の左側に描かれているのですね。
橋の西岸には、豊臣秀吉と蜂須賀小六の「出会之像」
日吉丸(秀吉の幼名)は父の死後、木綿針の行商していました。矢作橋の隅で寝ていると、通りかかった夜盗の親分だった蜂須賀小六に蹴飛ばされ、怒った日吉丸は小六に文句をつけます。すると小六は日吉丸の度胸を気に入り、二人は意気投合・・・その後、蜂須賀小六は豊臣秀吉の家臣の一人として与力から軍師となり、その後参謀として活躍しました。
そういえば、先程の八丁味噌「カクキュー」の看板にもこの場面が描かれていました。
日吉丸が敷いているムシロは、カクキューから盗んだものとか・・・。
でもこれは江戸時代の「絵本太閤記」のお話し。何となく「牛若丸と弁慶」の出会いのお話しと似ていますね
矢作橋は1601年(慶長6年)秀吉が亡くなった後に土橋として架けられました・・・つまり秀吉の幼少期には矢作橋はありませんでした。史実はどうであれ、岡崎の人々が大切にしてきたお話しです。
旧東海道を進みます。
旧東海道沿いには、時々このような「旧東海道」の小さな道標を掲げてくれているお宅があります。
間違いなく旧東海道を歩いていることを確認できて、とても助かります。ありがとうございます!
親鸞聖人も訪れた「勝蓮寺」
岡崎三郎信康(家康の長男)の唯一の肖像画も残されているそうです。このお寺の脇に日本橋から82番めの矢作一里塚があったそうです。
「近江屋本舗」
岡崎城で出会った「本多忠勝」殿おすすめの「くず餅アイス」を購入しました。シトラスオレンジ味・・・シャリシャリ、もちもちしていて美味しかったです。
「誓願寺十王堂」
中を覗くと、壁には地獄が描かれ、十王がじっとこちらを見ていました。
奥州平泉へ向かう源義経は、この辺りにあった長者の屋敷に宿泊しました。琴の名手だった浄瑠璃姫(長者の娘)と笛の名手だった源義経は恋仲になります。しかし、義経は奥州へ旅立ち、残された浄瑠璃姫は、乙川へ身を投じ、17歳という短い人生を終えました。長者は二人が出会ったこの場所に十王堂を建て、浄瑠璃姫を埋葬したそうです。
うん?この話し・・・旧東海道散歩・蒲原宿でも出会いました。
蒲原では、浄瑠璃姫は義経の後を追い、蒲原で力尽きたと云われていました。
名鉄名古屋本線の「矢作橋駅」に到着!
9,595歩の散歩でした
今回のお土産は「金ちゃんヌードル」と「クッピーラムネのわらび餅」
子供の頃好きだった「クッピーラムネ」のカクダイ製菓株式会社は名古屋の会社だったとは・・・初めて知りました。
(2018.6.4)
岡崎市内の旧東海道周辺は、第二次世界大戦での戦火でほぼ焼失してしまいましたが、この辺りは戦火を免れたそうです。
「左江戸 右西京」の道標を通過し、、「八帖往還通り」の緩やかな坂道を上ります。
矢作川を渡る「矢作橋」を渡ります。空を見上げるとグライダーが飛んでいました。
江戸時代は東海道で最も長い木橋(長さ374m)でした。
江戸小唄「岡崎五万石」では、「五万石でも岡崎様は お城下まで船が着く・・・」と唄われていたように、岡崎城は矢作川と乙川の合流地点にありました。水運の基地であった岡崎は、西三河の中心都市として栄えたそうです。
橋の上で振り返ると・・・橋の右側に岡崎城が見えました。
歌川広重「東海道五十三次之内 岡崎 矢矧之橋」
東海道一長い矢作橋と岡崎城が描かれています。橋の上には、京から岡崎へ向かう大名行列・・・この後、徳川家康生誕の地へ入るということで緊張している様子です。
江戸時代の矢作橋は、現在の場所より約80mほど下流にありました。だから岡崎城は橋の左側に描かれているのですね。
橋の西岸には、豊臣秀吉と蜂須賀小六の「出会之像」
日吉丸(秀吉の幼名)は父の死後、木綿針の行商していました。矢作橋の隅で寝ていると、通りかかった夜盗の親分だった蜂須賀小六に蹴飛ばされ、怒った日吉丸は小六に文句をつけます。すると小六は日吉丸の度胸を気に入り、二人は意気投合・・・その後、蜂須賀小六は豊臣秀吉の家臣の一人として与力から軍師となり、その後参謀として活躍しました。
そういえば、先程の八丁味噌「カクキュー」の看板にもこの場面が描かれていました。
日吉丸が敷いているムシロは、カクキューから盗んだものとか・・・。
でもこれは江戸時代の「絵本太閤記」のお話し。何となく「牛若丸と弁慶」の出会いのお話しと似ていますね
矢作橋は1601年(慶長6年)秀吉が亡くなった後に土橋として架けられました・・・つまり秀吉の幼少期には矢作橋はありませんでした。史実はどうであれ、岡崎の人々が大切にしてきたお話しです。
旧東海道を進みます。
旧東海道沿いには、時々このような「旧東海道」の小さな道標を掲げてくれているお宅があります。
間違いなく旧東海道を歩いていることを確認できて、とても助かります。ありがとうございます!
親鸞聖人も訪れた「勝蓮寺」
岡崎三郎信康(家康の長男)の唯一の肖像画も残されているそうです。このお寺の脇に日本橋から82番めの矢作一里塚があったそうです。
「近江屋本舗」
岡崎城で出会った「本多忠勝」殿おすすめの「くず餅アイス」を購入しました。シトラスオレンジ味・・・シャリシャリ、もちもちしていて美味しかったです。
「誓願寺十王堂」
中を覗くと、壁には地獄が描かれ、十王がじっとこちらを見ていました。
奥州平泉へ向かう源義経は、この辺りにあった長者の屋敷に宿泊しました。琴の名手だった浄瑠璃姫(長者の娘)と笛の名手だった源義経は恋仲になります。しかし、義経は奥州へ旅立ち、残された浄瑠璃姫は、乙川へ身を投じ、17歳という短い人生を終えました。長者は二人が出会ったこの場所に十王堂を建て、浄瑠璃姫を埋葬したそうです。
うん?この話し・・・旧東海道散歩・蒲原宿でも出会いました。
蒲原では、浄瑠璃姫は義経の後を追い、蒲原で力尽きたと云われていました。
名鉄名古屋本線の「矢作橋駅」に到着!
9,595歩の散歩でした
今回のお土産は「金ちゃんヌードル」と「クッピーラムネのわらび餅」
子供の頃好きだった「クッピーラムネ」のカクダイ製菓株式会社は名古屋の会社だったとは・・・初めて知りました。
(2018.6.4)