人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

(公演キャンセル・インタビュー編) 2020年 ホセ・クーラ ウィーンでサムソンとデリラに出演

2020-04-24 | オペラの舞台ーサムソンとデリラ

 *画像は2010年クーラ演出・主演「サムソンとデリラ」の動画より

 

 

新型ウイルス感染の世界的な拡大のために、2020年の3月以降、世界各地の劇場が閉鎖されています。ホセ・クーラ主演、ライブ中継も予定されていた、3月末~4月のウィーン国立歌劇場のサムソンとデリラも、残念なことにキャンセルされてしまいました。

クーラにとっても、2016年9月に西部の娘で出演して以来のウィーンは、とても楽しみにしていた公演だったと思います。ウィーン国立歌劇場の広報誌にも、クーラのインタビューが掲載されていました。今回はこのインタビューを紹介します。原文はドイツ語のようですが、クーラ自身が、フェイスブックで英文を紹介してくれました。

いつものように不十分な翻訳ですので、ぜひ原文、クーラの英文テキストをご参照ください。

 

 


 

 

●クーラのFBより

 

”ウィーン国立歌劇場のサムソンとデリラのキャンセルで私たちが失ったものの中に、この国立歌劇場の広報誌「プロローグ」のために行ったインタビュー記事がある。読んで分析するために、私の元の英語テキストをここに。非常に徹底したインタビューであり、この素晴らしいオペラにたいするあなたのビジョンを広げるのに役立つことを願っている。”

 

 

 

 

≪危険なカクテル≫

『プロローグ』 2020年3月

 

 

 

 

KS(ウィーン宮廷歌手の称号)ホセ・クーラは、ウィーン国立歌劇場で多くの重要な役を演じてきた。有名な役柄だけでなく、珍しい演目の主役としても。「彼の」サムソンは、ウィーンではまだ登場していなかったが、3、4月にこのギャップは埋められる。

 

Q、なぜ、少数のオペラハウスだけが、サムソンとデリラをプログラムに入れている?

A、(ホセ・クーラ) 必要な声は別として、この作品はもともとはオラトリオ(宗教的な合唱曲など)として構想されたものであり、そのためペースが静的な面がある。そこから魅力的なショーを作るためには、非常にカリスマ的なアーティストを必要とする。さもなければ失敗のリスクは巨大だ。 プロダクションがどれほど壮大であっても、退屈が待ち構えている可能性がある…...もちろん、それらを一種の増強剤として使用し、よりダイナミックなものに到達するために必要な速度に追いつくことで、明らかに遅い瞬間の一部を引き出すことができる。火山の噴火のように。つまり「暗さ」を利用して「明るさ」を強化する。それが優れたディレクターの仕事だ。しかし、作品のスタイルに抗して、オラトリオからノンストップの「アクションムービー」を作成しようとするのは間違いだ。したがって、演者の舞台上での存在感は必須であり、それが制限にもなりうる。

 

Q、サン=サーンスは折衷的な作曲家だった? 彼の音楽の特徴は?

A、彼の作品カタログを考慮すると、彼の時代はかなり折衷的であったと言える。一般的に、彼の音楽はフレージングが「ゆったり」で、ハーモニーが「厚い」。全般においてこれら2つの効果的な組み合わせに依存している。マスネ―やビゼーと同時代に生き、19世紀のフランス音楽の主要なトリオの一部となったのは不思議ではない。

 

Q、評論家はかつて、「サン=サーンスの音楽からは、彼が親切だったのか、愛していたか、苦しんでいたか、わからない」と言ったが?

A、作品を分析してその作家の個性を説明しようとするのは危険な冒険だ。主にこれは、ファンタジーの本質そのものを破壊する危険を冒すことになる。

 

Q、歌手としてのあなたは、サムソンとダリラの何から刺激を受ける? 指揮者、作曲家としては?

A、歌手としては、ボーカルラインと私自身のインストゥルメントとの完璧なフィット感。声のリソースとの「フィット」について言及する際、これが何を意味しているか、歌手だけが完全に理解できる。自分が歌うと決めたあらゆる役柄の課題に対処することは、プロの歌手の仕事だが、私たちにとって本当に自分の肌の下にいると言えるのは、ほんの一握りの役柄だ。

指揮者としての最大の課題は、宗教音楽ならではのスローテンポに屈服しないようにすることだ。そうでないと、楽曲のゆったりした音楽は退屈になってしまう。また、正当な火花によって引き起こされた動揺の感情が、革命、裏切り、そして大虐殺に変わっていく、この作品の精神的なパッセージを伝えることも不可欠だ。

通常陥る罠の1つは、最後の合唱の音楽「Dagon serevèle」を陳腐なものとして扱うことだ。サン=サーンスがインスピレーションを使い果たし、すぐに作品を完成させて小切手に換金するためこの「安っぽい」パッセージを書いたのだと言って…。たぶん作曲家は、ダゴンの神をサムソンの神と比べて二次的なものにするために、意図的にダゴンの音楽を新鮮味がないようにしたのではないだろうか。

しかし、サムソンとダリラにとって、最大の課題は演出家だ。私は25年の間にこの役柄で数え切れないほどのプロダクションに参加した。そして、そのスタイルに関係なく、失敗したプロダクションは、作品の精神的な内容を否定し、基本的に信仰と宗教の対立の上に成り立っている作品に、他の「存在理由」を 投影しようとするものだった。このことは、他の種類の審美的な改作を拒否すべきという意味ではない。これは良い演出家にとっての特権だが、ただし最終的なスタイルの逸脱が、台本の内容から切り離されていない場合に限る。絵画の特定の側面を強調し、よりよい判断をする方法として、ダ・ヴィンチのジョコンダに光を当てることはありうるが、見栄えをよくしようと考えて、そのふくよかな顔に口ひげを塗る権限はない。

 

Q、このオペラは、歌手にとってどの程度、優しいといえる?

A、声も技術も持っていないなら、歌手に優しいオペラはない。そして逆もまた同様だ。

 

Q、オペラは暗い色のなかで生きている?

A、人間の相互の関係を含む作品は、暗い色合いを暗示する必要がある。その上に、セクシュアリティを宗教と混ぜ合わせると、非常に危険なカクテルになる。

しかし最大の問いの1つは、サムソンは最初の自爆的な「テロリスト」であったのだろうかということだ。つまり、彼の理由づけに関係なく、ストーリーの避けられない事実の1つは、サムソンが彼の力の回復を願ったのは、彼が教訓を学んで、新たに獲得した知恵でそれを使用するためではなく、敵を一挙に殺害できるようになるためだったということだ。

 

Q、なぜオペラはサムソンと呼ばれない?なぜダリラと同等?

A、なぜオペラはダリラと呼ばれない?

 いわゆる「ラブ・デュエット」(2重唱「あなたの声に私の心は開く」)は、愛についての場面ではなく、正反対のものだ。それが脚本のドラマチックな推進力の中心にある。第3幕のサムソンの独白においては、そのカタルシスとダリラのサディスティックな嘲笑が、罰のサイクルを完全に閉じるために不可欠な屈辱であり、双方の名前で作品を呼ぶことは必須だ。

私は、この「名前」の問題と、カーテンコールで発生する可能性のある競合に関して、とても感動的なエピソードを持っている。誰が最後に拍手を受けるのか、テノール(サムソン)か、メゾ・ソプラノ(デリラ)か? 私たちは女性の主役が最終のカーテンコールを受けることでこの問題を解決していたが、1998年にワシントンで偉大なデニス・グレイブスと一緒にこの作品を演じた際、私がいつものように、彼女の直前に、拍手を受けるため出ていこうとしたとき、彼女が問答無用のジェスチャーで私を止めて、こう言った。「今夜、あなたがやったことは、最後の人に値する」と。それ以来の私とデニスとの友情は別としても、オペラのタイトルに関して、このことは、少なくとも感情的には、議論がまだ開かれていることを示している。

 

Q、サムソンを特別にするものとは? サムソンは英雄か?彼は肉体的な能力より精神的な能力が低い?彼はアンチヒーロー?ダリラは彼より強い? 少なくとも賢いのか?

A、古代ギリシャの定義によると、英雄とは、個人の最高の資質を体現する人間であり、彼が住んでいる社会のためにその資質・能力を使う者である。誰もがヒーローになることができる。しかし、「スーパーヒーロー」とは、特別な能力によって一段上の人物であり、この意味で、サムソンからスーパーマンまで、歴史上の記録は同じ精神でアニメーション化されているーー正義のために使われる超物理的なパワー。サムソンが裁判官とされている(「旧約聖書」の裁判官の章が元になっている)のも不思議ではない…。

彼はアンチヒーローではない。アンチヒーローとは、「普通」と同義語なので、それは彼にとっては容易かっただろう。彼の過ちが普通に判断できないものであったのは、彼が普通ではなかったからだ。彼は物理的な意味において、失敗したスーパーヒーローだった。彼の民と彼の神にとっての深い精神的な幻滅という点で。ダリラは彼ほど強くはなかった。内面の信念のためではなく、彼女が金のために彼を裏切った瞬間以来。しかし、そう、彼女はもっと賢かった。一般的に、そして特に性的に盲目の男性を扱う場合、どの女性も、男性より賢いのではないだろうか?

 

Q、ダリラはサムソンを愛している?

A、ハート(感情)とマインド(理性)との間の闘い?最終的に勝つのは何だろうか? オペラが上手く終る可能性はほとんどないのでは? もちろん、エンディングをひねることは可能だが、それはまったく別の話だ。

この言葉の意味を探ろうとする時、個人の感情的な不安定さ、さらには政治的課題に合わせるために、それを歪める必要はない。旧約聖書『士師記』のサムソンの物語は、おそらく、官能の網とその姉であるセクシュアリティに屈服する危険性について教えるために、当時の宗教教育者によって教育目的で作成された寓話だ。男性と女性の間の本当の愛は、この寓話には何の関係もない。

 

Q、何がダリラをサムソンにとって興味を引くものにしている?彼女は禁断の果実だと?

A、サムソンの性格に不可欠な要素の1つは、つまり教育目的に必要という意味だが、彼の略奪的な性格だ。それは、肉体的強さの本来の目的を完全に誤解したことによって補強されている。

ヴェルディのオテロと同じで、オペラの台本にはシェイクスピアの第1幕が欠如しているため、原作の全文を研究しない限り、ドラマの展開上の線に危険な誤解を招いてしまう。サムソンとデリラでは、オペラが始まる前に起こったことについて全く触れられていないため、テキストを綿密に調べないと、サムソンの心理を理解するのが非常に難しくなる。

サムソンは強く、きまぐれで、望んだものを手に入れるため、常に戦闘の準備ができていた。彼は、ほとんどの場合、ありふれた理由によって敵対する者なら誰でも簡単に殺すことができた。彼が特に怒りを爆発させた日は、1日に1千人までも。また「ライオンの殺害」の逸話は、ギリシャ神話に見られるように、彼の地位を半神に昇格させるために必要なものであり、彼のエゴがいかに制御不能であったかを我々が理解するうえで重要だ。

ダリラが、大祭司の愛人でもあったことは言うまでもない。それは、サムソンが彼女を欲しがった理由、明白な肉体的な魅力とは別に、その理由を非常に興味深いものにしている。彼女は魅惑的なトロフィーだったのだ。望んだものを得るために、サムソンに性的な力を使うようにダリラに頼むのは、司祭自身だ。この世界で新しいことは何もない。特にショービジネスにおいて。そこは、セックスとパワーが依然として非常に複雑に関連しているところだ。

プロローグ』 2020年3月

 

 

 

 


 

サムソンとデリラのキャラクターとオペラに対するクーラの解釈、なかなか読み応えのある記事だったと思います。

クーラは、オテロでも、このサムソンでも、またトゥーランドットや蝶々夫人、カルメンなど、有名で人気のあるオペラに関しても、つねに一般的な解釈にとどまることなく、原作やそれ以前の物語にさかのぼり、また周辺の歴史的事実なども綿密に調べ、キャラクターとドラマの解釈を掘りすすめ、探求する姿勢をつらぬいてきました。特に、現代の視点で、社会的な観点を踏まえ、合理的で、現代に生きる解釈をめざすという点では、クーラの姿勢には非常に共感できると思っています。とりわけ、歌手、出演者、指揮者、作曲家、演出家として、それぞれの経験を積んできていることから、非常に専門的な蓄積を持ちながら、決して難解にはしないで、誰もがわかりやすい形で問題提起してくれていると思います。

このブログでも、そういうクーラの姿勢と解釈をこれまでも紹介してきましたので、ぜひ興味のお持ちの方にお読みいただければうれしいです。

クーラの久しぶりのウィーン出演、そしてライブビューイングによる鑑賞が幻となったことは、非常に残念でした。とはいえ、この世界的なコロナ禍のなか、いつ劇場の再開が可能なのか、まだまだ見通せない状況が続いているもとでは、とにかくアーティストと劇場関係者、オケ、合唱団などの文化・芸術の支え手の方々が、健康で、生計を維持しつつ、この時期を無事に乗り越えてくださることを願うばかりです。先進的な支援策をとっている国にならって、文化政策として、思い切った助成をしていただきたいと思います。また音楽ファンのひとりとして、できることがあれば何らかの形で応援したいと思います。

最後に、一番最近のクーラのサムソンの動画である、2018年5月、ロシアのマリインスキー劇場での舞台を、劇場の公式チャンネルのリンクで紹介します。

 

 

●2018年5月、ロシア・マリインスキー劇場でのオリガ・ボロディナとのサムソンとデリラ(コンサート形式・全編動画)

 

 

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