DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

吉本ばなな(1964-)「田所さん」(2000年):彼は①自己の感情において「偉大」、②他者の価値判断において「偉大でない」、ただし②-2 著者(一人の他者)の価値判断においては「偉大」だ!

2018-07-08 10:00:46 | 日記

(1)
田所さんは、毎日、会社に十時に来て六時に帰る。することはコーヒーを飲み、本を読み、誰も出ない時に電話に出たりするだけ。六十代後半か七十くらい。奥さんも子供もいない。独り暮らし。田所さんが、休むことがあると、「わけもなく皆とても暗い気持ちになり、心配」する。社長は、一日一回は田所さんを見に来る。田所さんは、「学校の校庭のすみっこで飼うことを黙認されていた猫みたい」な存在。「皆が義務ではなくて餌をあげているから、いつもそこにいることができた猫」のような存在。田所さんは、「ビルの谷間の小さな花壇」みたいだ。「彼がいることで皆少しは、この世を好きでいられる。自分の善意を確認できる。」それは「人としてとても必要なこと」だ。

《感想》
田所さんは、実に不思議な存在だ。①会社に、このような身分の人がいるのが、まず不思議だ。次いで、②田所さんに対して社員たちが示す親近感が不思議だ。また③社長は、田所さんをどう思い、なぜ役に立たない者を雇い給料を払うのか?④何よりも、田所さんは、「ビルの谷間の小さな花壇」みたいだ。「彼がいることで皆少しは、この世を好きでいられる。自分の善意を確認できる」との判断が、どこから生まれるのか、不思議だ。

(2)
先代の社長は、健康食品専門のスーパーを十五店、経営していた。息子である今の社長は、三店舗に減らしてしまったが、通信販売がのびを見せ、安定している。私が大卒でこの会社に入社した時、田所さんは、もうすでにそこにいた。今、私はパンフレット制作・ホームページ管理など行い、部下が三人いる。
(3)
田所さんは、よれよれのスーツを着て、少し臭い匂いがする。Yシャツは男性社員が見兼ねてお古をクリーニングしたものをあげたり、安売りのものを女子社員がプレゼントしたりする。田所さんは、背がとても低く、頭ははげている。「目がとても細く、表情は読めない。」「妖怪みたいな目で、気味が悪い。」彼を見ていると「山などを眺めている時の気持ち」になる。「遠くて、なんとなくきれいなもの。それが彼の魂の色なのだろう。」

《感想》
田所さんは、実は「少し脳のあやしい」人だ。だが、会社に、きちんとスーツを着て来るなど、日常生活がそれなりにできる。「表情は読めない」、「妖怪みたいな目で、気味が悪い」のは、少し脳が「あやしい」ためだろう。だが彼の「魂の色」は、「遠くて、なんとなくきれい」なのだ。
《感想(続)》
人間の価値を、著者は、「魂の色」で表示する。田所さんの「魂の色」はきれいと評価される。彼は、価値ある人間だ。著者は、人間の価値を、効率性、つまり財貨の生産能力(あるいは労働能力)で見ない。田所さんに、財貨の生産能力はほとんどない。著者は、「少し脳のあやしい」人を理想化する。
《感想(続々)》
だが、普通、「少し脳のあやしい」人は、何をするか分からないので危険と思われたり、あるいは《役立たず》と軽蔑され陰口を言われ虐待される。著者の見解は、これと異なる。

(4)
入社して一ヶ月目、私は、ついに耐えられなくなり、その時直属の上司で「後にちょっとだけ不倫のおつきあいをすることになった人」に、「田所さんって、何なんですか?」と聞いた。
(4)-2
その上司の話によると、「今の社長は小学生の時にお母さんが家を出て行ってしまい捨てられた」。そして「その時本当にめちゃくちゃになってしまった」。先代の社長は忙しくてあまりケアできなかった。その時、隣のボロアパートに住んでいた「少し脳のあやしい田所さん」が、「よく見かけていただけの関係の幼い現社長を、本当に身をけずって世話をした。」「荒れに荒れていた現社長」に、①「お金を取られ」、②「殴り殺されそうに」なっても、「自分の息子以上の愛情で接した。」③「自殺を止めたりもした」。④「持っているお金を全部現社長の気晴らしをするための旅行に使ったりした。」

《感想》
「少し脳のあやしい田所さん」は、善意の人だった。彼は、「幼い現社長」のことが好きだったのだ。彼は好きな子ども(現社長)の運命が心配だった。彼は、愛情を子ども(現社長)に、無私の態度で注いだ。現実的な余計な計算が、「少し脳のあやしい田所さん」にはできなかった。その限りで、彼に悪意がなかった。彼は「きれい」な「魂の色」を持っていた。

(4)-3
「何かちょっとしたことでカッときた現社長が田所さんを刺した時、田所さんはついに入院費が払えなくなって、現社長ははじめて父親に田所さんの愛情のすごさを伝えた。」そして、その時以来、現社長は「きっぱりと立ち直った」。
(4)-4
先代社長は、「無職で親のお金もすっかりなくした田所さん」を、うちの会社に意味もなく置くことを決めた。名目は健康食品のアドバイザー。彼は社員になった。定年になってからは、アルバイト扱いになった。そして、今、田所さんは、来なくてもいいのに、毎日きちんと会社に来る。

《感想》
先代社長(現社長の父親)は、人情味ある義理堅い人だ。それがすごい。ただし田所さんを、会社に意味もなく置くことが出来たのは、小回りが利き、家族経営の小会社だったからだ。

(4)-5
現社長は酔うと必ず田所さんのことを「みんなじゃまに思ってるかもしれないが、許してくれたまえ。あの人は何をしてくれたでもないが、おやじ以上におやじでおふくろ以上におふくろなんだ。」と言う。

《感想》
現社長も、田所さんへの感謝を忘れない人だ。会社経営が、これからも順調に行ってくれるといい。ただ会社がつぶれる前に巧く会社をたためば、従業員は路頭に迷うが、経営者(所有者)は、まとまったカネを手に入れられる。その場合も、現社長は、田所さんが亡くなるまで面倒を見るだろう。この世にあってほしい善意の関係だ。

(5)
社員は、「彼をじゃけんにして彼がいなくなったら、罰があたるような気がする」と思っている。「田所人形を作ってお守りがわりに持つのが流行ったこともある。」

《感想》
社長が田所さんを、採用するのだから、もちろん社員はそれ拒否できない。ところが田所さんは、職務上無能なのに、社員に受け入れられている。彼の人間的魅力だ。普通なら、嫌がらせを受けたり、悪口を言われるか、よくて、《まあ社長の意向だからしょうがない》と思われ、それなりに対応されるだけだ。

(6)
ある雨の日、田所さんが、元気がない。「洗濯機の後ろにね、何かを飼ってるんだけど、雨だから、淋しいかと思って」と言う。彼は「社会にもまれることもなく、熱い恋もせず、不倫で性欲の処理をすることもなく、孫の顔を見ることもなく、洗濯機の後ろの何かとひっそり暮らす彼。」

《感想》
著者の空想上の理想人格が「田所さん」だ。なぜなら、①知的障害があれば、普通、そもそも一人で暮らすことが出来ない。知的障害があって、一人で暮らせるという設定が、空想的だ。さらに、②知的障害があれば、「社会にもまれる」に決まっている。蔑(サゲス)まれ、苛(イジ)められ、普通なら、親が、彼をかばわねばならない。「社会にもまれることもなく」という設定が空想的だ。③そもそも知的障害があれば、生計の道がなかなかない。彼の場合は「親のお金」があったとしても、お金をどのように管理できたのか?誰かの助けを借りずに「独り暮らし」でやってこれたというのも空想的だ。④「性欲の処理をすることもなく」ということもあり得ない。今も、また若い頃は特に、「性欲の処理」を何らかの形でするはずだ。これら①②③④に関する設定が、空想的だ。
《感想(続)》
田所さんが、「洗濯機の後ろの何かとひっそり暮らす」ことは可能だ。すでに彼は老人だし、生物としてのエネルギーが減少した分、身体的行動に生きるのでなく、思念の内に生活することが出来やすくなるからだ。

(7)
たまに誰か社員が、田所さんに八つ当たりする。「いるだけでめざわりなのよ!」とか「俺たちはあんたを養うために働いてるんじゃねえ!」と言ったりする。だが「田所さんは何も言わない。」しかし、苛立ちを発散した社員は、あとで、みんなものすごく反省し、彼の机に花を飾ったり、あやまりに行ったりする。「田所さんはぼんやりと遠くを見て、お礼を言うだけだ。」人間は「心の闇を処理する場所があると・・・・・・追い詰められない。」「昔、私達がまだマンモスの肉とか食べていた頃」、「きっと村には必ず田所さんのような役割の人がいたはずだ。」

《感想》
カトリックでは、懺悔(告解)の制度がある。神の代理とされる司祭に罪を告白し,神の許しを請う。「田所さん」は、カトリックの司祭に相当する。仏教でも、過去の罪を悔いて,仏,菩薩,師の前に告白し,許しを請う制度があった。この場合、「田所さん」は、仏または菩薩だ。

(8)
次の雨の日、田所さんが、洗濯機の後ろに飼ってるものについて、「あれね、正体がわかったの、アメジストだった。」「夜中の真っ暗な部屋の中に紫色が見えたんだ。炎のように光っていた。」と言った。
(8)-2
田所さんの人生は「ひとりの人の誰にも顧みられないかもしれない偉大な人生」だ。「音もなく優しく」息づく人生。

《感想》
アメジストを、田所さんは確かに見たはずだが、それは①他者と共有されないし、②また物体世界の規則性に反する。それは、幻想のアメジストだ。幻想が現実となるための条件は、かくて2つある。①批判する他者を絶滅すること。②物体世界の規則性を無効にすること。
《感想(続)》
「誰にも顧みられないかもしれない偉大な人生」に対し、《誰かに顧みられる偉大な人生》とは何か?昔、「末は博士か大臣か」と言ったから、博士と大臣は偉大だろう。「故郷に錦を飾る」人。『フォーブス』誌の「世界長者番付」に載る人。勲章をもらった人。ノーベル賞受賞者。《偉人伝》が読まれるような偉人。アーサー王、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、キリスト、カエサル、クレオパトラ、孔子、漢の武帝、玄宗皇帝、李白、ムハンマド、カール大帝、ナポレオン、カント、リンカーン、ヒトラー(※議論あり)は世界の偉人。ヤマトタケル、藤原道長、豊臣秀吉、徳川家康、西郷隆盛、湯川秀樹、美空ひばりは、日本の偉人。
《感想(続々)》
だが結局、空しいではないか!いかなる人生も、「偏(ヒトエ)に風の前の塵に同じ」だ。つまり、いかなる人生も終わりがあることでは、同一だ。人生は、誰でも同一なのだ。その意味では、誰も「偉大な人生」を送るか、「くだらない人生」を送る。
《感想(続々々)》
あるいは、人生に「偉大」か、「偉大」でないかの差異があるとすれば、それは①自己の感情における満足・不満足か、②他者の価値的判断による肯定か否定かだ。かくて「偉大」とは①自己の感情における満足、あるいは②他者の価値判断における肯定だ。「田所さん」は、①自己の感情において満足しているから「偉大」だ。②他者の価値判断においては、普通、否定的だから、「偉大でない」。ただし②-2 著者(一人の他者)の価値判断においては肯定されるから「偉大」だ。
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 金子みすゞ(1903-1930)「小... | TOP | (1)「口は禍のもと」、(2)「... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 日記