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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(107)-3 百田氏の誤り③:「韓国」に関し、史料・事実を提示しない断言(「悪魔のような」or「捏造」)は歴史著作として誤りだ!

2021-10-19 11:25:46 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「日本の復興」の章(385-455頁)  

(107)-3 百田氏の誤り③:史料・事実を提示しない断言(「悪魔のような」or「捏造」)は歴史著作として誤りだ!(422-423頁)
F-4 百田尚樹『日本国紀』は、「メディア」の北朝鮮・韓国に関する報道について次のように述べる。「メディアは北朝鮮を礼讃(ライサン)する一方、北と対峙する韓国のことは、独裁による恐怖政治が行われている悪魔のような国と報道した。左翼論壇の拠点であった岩波書店は『韓国からの通信』(※岩波新書①1972-74、②74-75、③75-77、Cf. ④『軍政と受難』1980)という、韓国の悪いところばかりを糾弾する本(一部に捏造もあった)を何年にもわたって出し続けベストセラーとなっていた。」(百田458頁)
F-4-2  百田氏の誤り③:韓国に関しメディアが「悪魔のような」国と報道した、また岩波書店の『韓国からの通信』には「捏造もあった」と百田氏は断言するが、史料・事実を示していない。史料・事実を提示しない断言(「悪魔のような」or「捏造」)は、歴史著作としては誤りだ。(422頁)
F-4-3  事実としては、韓国の李承晩政権(1948-1960;第1共和国期)は、1952年に、日本に対し「李承晩ライン」(1952年)を一方的に設定し、また戒厳令を発して反対派を弾圧した。その後も国内の野党を弾圧した。(422頁)

F-4-4  李承晩政権(1948-1960)以降、『韓国からの通信』(岩波新書①②③④1972-1980)までの時期の日本の状況について、浮世氏が言う。(ア)「情報がほとんど入らず、朝鮮総連からのプロパガンダしか伝わってこない北朝鮮と、情報が入りやすく、明らかな独裁と荒廃の目立つ韓国を比べれば、当時は韓国に否定的な論調になるのは当然だ。」(422頁)
F-4-4-2  (イ)「冷戦時代の思想の潮流においては、やはり政権与党と野党の対立、政権の右傾化に対する批判勢力の左傾化という二項対立が起きやすい。」(422頁)
F-4-4-3 (イ)-2 「左派勢力の誇張された批判やプロパガンダがあれば、同じ質・量で右派勢力の誇張された反論やプロパガンダもあった。」(422頁)
F-4-4-4 (イ)-3 「左右どちらの主張も、極端な議論に陥った時は『事実をもとになされてきたというにはほど遠く』『特定のイデオロギーにねじ曲げられてきた』(百田458頁)という側面を持つ。」(422頁)
F-4-4-5 Cf. 「韓国の悪いところを糾弾する本」(百田458頁)が、現在では右寄りの立場から多数出版され、ベストセラーになっているものもある。(422頁)

F-4-5  なお日本の「55年体制」(1953-1993)について言えば、これは「三分の二弱の与党と三分の一強の野党体制」であり、この政治状況は、国民が一方で与党の経済政策・外交政策に一定の理解を示しながらも、他方で軍国主義の復活や極端な右傾化を嫌っていた結果と見るべきだ。(422-423頁)

《参考1》第1共和国1948-1960!
1948年「大韓民国」成立:李承晩大統領。(第1共和国1948-1960)。1949年共産党非合法化。1950年6月朝鮮戦争勃発、朝鮮人民軍ソウル占領。9月国連軍、仁川上陸作戦、ソウル奪回。10月中国人民志願軍参戦。1951年中朝軍ソウル奪回。3月国連軍ソウルを再奪回。4月マッカーサー解任。12月12月李承晩大統領、与党自由党を結成。1952年1月李承晩ライン宣言。8月直接選挙制で李承晩大統領再選。1953年7月朝鮮戦争休戦協定締結。1956年李承晩大統領三選。1958-59年、野党進歩党の曺奉岩委員長が逮捕・処刑された(進歩党事件)。
《参考1-2》第2共和国1960-1961!
1960年3月大統領選選挙、4月大統領不正選挙を糾弾するデモで李承晩退陣。7月民主党政権成立:尹潽善大統領。

《参考2》国家再建再興会議1961-1963→第3共和国1963-1972!
1961年朴正煕少将などによる「5・16軍事クーデター」、全国に非常戒厳令布告、国家再建最高会議(1961-1963)設置。1963年民政移管、朴正熙大統領。(第3共和国1963-1972)。1964年ベトナム出兵(- 1973年)。1965年日韓基本条約締結。1967年朴正熙大統領2度目の当選。1969年10月憲法改正(大統領3選を可能とする)。1971年朴正煕、金大中を破り大統領3選。

《参考3》「維新体制」、第4共和国1972-1980!
1971年12月朴正熙大統領、「北朝鮮による南侵の脅威」を理由として「国家非常事態宣言」を布告。1972年、非常戒厳令を宣告(10月維新)。11月、維新憲法が成立(「維新体制」、第4共和国1972-1980)。12月、統一主体国民会議が朴正熙大統領を選出。1973年8月、野党指導者金大中が東京都内のホテルから拉致される。(金大中事件)。1975年 大統領緊急措置第9号布告、反政府活動全面禁止。1976年 在野指導者、民主救国宣言を発表するが金大中・文益煥など逮捕・実刑判決。1978年、統一主体国民会議、朴正熙大統領を選出。1979年10月、朴正熙大統領、金載圭中央情報部長に射殺される(10・26事件)。
《参考3-2》Cf. 1970年代「キーセン(妓生)観光」ブーム!
1970年代、日本人を主な客とする「キーセン(妓生)観光」ブームがあった。日本人観光客数は1971年9万人から1979年65万人に増えたが、その85%以上が男性だった。朴正熙政権は73年から売春婦に許可証を与え通行禁止と関係なく営業できるようにし、旅行会社を通じ「キーセン観光」を海外に宣伝した。それは外貨を獲得する「愛国的行為」とされた。

《参考4》「ソウルの春」(1979年10月朴正熙大統領暗殺以後)→1980年5月非常戒厳令全国拡大で「ソウルの春」終了!
1979年12月、統一主体国民会議、崔圭夏大統領を選出。大統領緊急措置令第9号の政治犯を釈放。「粛軍クーデター」全斗煥保安司令官など新軍部が、韓国軍の実権を掌握。1980年「戒厳令撤廃」と「維新残党退陣」を要求する学生デモ、またストライキなど労働争議の高まり。5月非常戒厳令全国拡大。同月、戒厳軍が光州で学生・市民と衝突(「光州事件」)。8月崔圭夏大統領が辞任し、統一主体国民会議が全斗煥大統領を選出。

《参考5》第5共和国1980-1987!
1980年12月国民投票で第5共和国憲法承認。(第5共和国1980-1987)。反体制詩人金芝河など8名の刑執行を停止・釈放。1981年1月非常戒厳令解除。2月大統領選挙人団の選挙で、全斗煥大統領当選(9割近い得票を獲得)。1982年1月文教部、中高生の制服・髪型の自由化発表。夜間通行禁止令全面解除。12月金大中の刑執行が停止され、病気治療を名目に渡米。1985年1月政治活動禁止措置解除者を主軸に新韓民主党(新民党)結成。2月金大中が帰国。1986年5月新民党の「直選制改憲1000万署名運動」仁川・京畿道支部結成大会が、新民党を批判する急進的民主化運動勢力のデモと警察の暴力的鎮圧で中止される。(「5・3仁川事態」)。

《参考6》第6共和国1988-現在!
1987年6月大統領候補盧泰愚(ノテウ)が大統領直接選挙制への改憲や金大中氏の赦免・復権など八項目からなる「民主化宣言」を発表。12月大統領選挙、16年ぶりの大統領直接選挙で盧泰愚が当選。(第6共和国1988-現在)。1988年2月盧泰愚大統領就任→1993年金泳三大統領→1998年金大中大統領→2003年盧武鉉大統領→2008年李明博大統領→2013年朴槿恵大統領→2017年文在寅大統領。
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