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柴田錬三郎(1917-1978)「長崎奉行始末」(1974年):文化5年(1808年)、長崎で「フェートン号事件」(鎖国下の英軍艦の侵入)が起きた!長崎奉行・松平康平は責任を取り切腹した!

2023-08-14 13:26:24 | 日記
※柴田錬三郎(1917-1978)「長崎奉行始末」(1974年、57歳)『日本文学100年の名作、第7巻、1974-1983』新潮社、2015年、所収
(1)15年前、九州平戸の白浜で発見した双生児の捨児を松平康平(現・長崎奉行)は家来の九造に「育ててやれ」と命じた!
A 長崎奉行・松平図書頭(ズショノカミ)康平(ヤスヒラ)は格式ぶらぬ人物だった。彼は27歳の時、目付兼船手頭(フナテガシラ)となり、20年間日本全土を歩いた。供は家来で抜刀術の手練者(テダレ)、吉行九造一人だった。
A-2  15年前、九造が九州平戸の白浜の廃船の中に双生児の捨児を発見した。双生児は西洋人の面貌をしていた。康平は「おそらくオランダ商館員と漁師の娘の子だろう。九造、お前が育ててやれ」と命じた。九造は当惑したが、主人の命令とあればやむを得なかった。
A-3  それから14年の歳月が流れ松平図書頭康平は、昨年、長崎奉行に任じていた。

(2)文化5年(1808年)、長崎で「フェートン号事件」(鎖国下の英軍艦の侵入)が起きた!  
B 文化5年(1808年)、長崎で「フェートン号事件」が起きた。当時、ヨーロッパではナポレオンがフランス皇帝でありヨーロッパ大陸を支配し、イギリスと対立していた。オランダはナポレオンに屈して、フランスと同盟を結び、イギリスと交戦状態にあった。
B-2  1808年、オランダ商船を攻撃しようと、350余の兵員を乗せ20門の大砲を備えたフェートンが、オランダ国旗を掲げて偽装し、長崎湾内に入った。しかし港内にオランダ商船はいなかった。
B-2-2  その夜(1日目)、フェートン号から5隻のボートが出島のオランダ商館を襲い、2人の館員を拉致した。そして翌朝(2日目)フェートン号はユニオンジャックの旗をかかげた。
B-2-3  イギリスの巨艦に対する鎖国下日本の戦闘力は、無きにひとしかった。沿岸の大筒小筒は170年前の寛永年間からのしろものだった。
B-2-3-2 しかも長崎奉行の下には見番所に30人足らずの兵力(大村家と鍋島家が警護担当)があっただけだった。
B-3  フェートン号は「今日中(2日目)に飲料水、野菜のほか、牛肉4頭分、鶏10羽、果実多数、薪二隻分、芋200斤を送られたい。今日中に供給されない場合は、敵国であるオランダ商館のある出島を攻撃する。そのために長崎市街が被害を蒙っても、当方の責任ではない」と通告してきた。

(3)長崎奉行・松平康平:英軍艦フェートン号は出島のオランダ商館へ大砲を浴びせかけておいて、去る公算が大きい!日本国の面目を保たねばならない!
C 長崎奉行・松平康平は書屋から吉行九造を呼び「入って参れ。たのみがある」と言った。「フェートン号の要求どうり物資をくれてやらねばなるまい」、しかし「オランダと戦いを交えて居るイギリスの軍艦だ。物資を受け取り人質を返し、おとなしく去るかどうか――それが、問題だ。」
C-2  「出島の商館へ大砲を浴びせかけておいて、去る公算が大きい。これでは国威をけがされたことになる。日本国の面目を保つためには、日本国には武士道というものがあることを対手方に示す。打つ手はこれひとつしかあるまい、賭けだ」と康平が言った。
C-2-2  「15年前、お前が、平戸の浜で拾って育てた左太と右太が、この役目にふさわしい。左太と右太は面貌が西欧人そのままだが、お前の訓育によって、武士道の吟味を為す性根を持って居る。抜刀術の修練も積んで居る。」「九造、たのむ!」康平は頭を下げた。九造は平伏した。その肩が、激しく顫(フル)えていた。

(3)-2 英軍艦フェートン号艦長に対する左太と右太の「騎士道(武士道)の行為を以てのお願い」:何事もなくお帰り下さることを嘆願いたします!
D 申の刻(午後4時)(2日目)、長崎奉行・松平康平は、長崎奉行手代らを使者として、要求された大量の物資をたずさえてフェートン号へ派遣した。これに随行して、九造が育てたオランダ人と日本娘の混血児左太と右太がいた。双生児は、康平が与えた熨斗目(ノシメ)紋服をつけ、大小を差していた。その姿は美しかった。
D-2  フェートン号では艦長が出迎え、物資を受け取った。その時、艦長の視線は左太と右太に注がれた。通詞が「長崎奉行の子息です」と紹介した。「日本のサムライは、外国人の女を妻にするのか・・・・」と艦長が言った。左太と右太は同じ年齢位の艦長の息子に、どこやら顔立ちが似通っていた。艦長は日本側の使者たちに晩餐を饗応した。
D-3  晩餐が終わり、一同は艦長に見送られ、帰るべく甲板へ出た。
D-3-2  突然、左太が艦長に向かって一礼すると、その場へ正座し、1通の文書を前に置いた。そしておもむろに熨斗目」の前をくつろげた。左太は脇差を抜き放ち、腹をかき切った。瞬間、右太が、左太の首を刎ねた。次いで右太が正座して、おのが咽喉を貫いた。目撃させられた艦長以下イギリス海軍の士官水兵は、声も出ず沈黙を守っていた。
D-3-3  左太が置き残した文書には英文で「貴艦が、もしかりに退去する際、出島のオランダ商館を砲撃する意図をお持ちならば、われらが兄弟が、騎士道の行為を以てのお願いをいたしますゆえ、ふたつの霊魂に免じて、何事もなくお帰り下さることを嘆願いたします」と記してあった。

(3)-3 1880年8月18日、長崎奉行・松平康平は「英艦の侵入は・・・・この奉行の油断でありました」とフェートン号事件の責任を取り切腹する!
D-4  翌日(3日目)、フェートン号はオランダ商館も長崎の町を砲撃することもなく、長崎港を去った。
D-5  長崎奉行・松平康平は老中宛の報告書をしたためた。「英艦の侵入は・・・・この奉行の油断でありました」、「英人の不埒に対しては・・・・長崎の惨害を避けるように計りました。これはわが国の大筒があまりに旧式であることと兵力の不足のためで、不調法至極と存じます」等々。
D-5-2  書き了えた康平は九造を呼び介錯を頼み、腹を切った。享年48歳だった。
D-5-3  後に長崎町民は諏訪神社内に、一祠を建てた。「康平霊社」といい毎年8月18日に、祭った。左太と右太の墓は、どこにも残されていない。

《感想1》「鎖国」下、長崎奉行・松平康平は、「長崎港への外国艦の侵入」を許したことの責任を取り切腹する以外に選択肢はなかった。
《感想2》「長崎の惨害を避ける」ように計った長崎奉行・松平康平は、長崎町民から深く感謝され「康平霊社」が建てられたのだ。
《感想3》左太と右太の「騎士道の行為を以てのお願い」(切腹、自刃)は柴田錬三郎氏のフィクションであろう。
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