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①死の隠蔽への「誘惑」と②死の「鎮静」と③死からの「疎外」は、現存在の日常性における「頽落」の存在様相である! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第1章」「第51節」

2019-11-28 11:48:39 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第51節 死へ臨む存在と、現存在の日常性」

(2)世間(世人)の世間話(空談)のなかにこもっている心境(情状性)的了解は《死へ臨む存在》をどのように開示しているか?
E 「日常性における自己とは、公開的な既成解釈にのなかで構成される世間(世人、das Man)である。」「この解釈は、世間話(空談、as Gerede)のなかで発言している。」(252頁)
E-2 「解釈」の基礎を提供する「了解」は常に「心境(情状性)的な了解、すなわち気分に染まった了解」である。(252頁)
E-3 かくて問いは、「世間(世人)の世間話(空談)のなかにこもっている心境(情状性)的了解は《死へ臨む存在》をどのように開示しているか」である。(252頁)
《感想2》ハイデガーによれば、「公開性」とは、自明性(当然とされること)だ。(127頁)

(2)-2「現存在の日常性」における「公開的な既成解釈」は、「《ひとはいつかきっと死ぬ、しかし当分は、自分の番ではない》」と言う!
F 「日常的な相互存在の公開性」は「死」を「たえず発生する災難」、「死亡例」として「承知している」。(253頁)
F-2 「世間」(世人)の「話」は、つまり「公開的な既成解釈」は、「《ひとはいつかきっと死ぬ、しかし当分は、自分の番ではない》」と言う。(253頁)
F-3 「《ひとは死ぬ》(man stribt)」という話し方は「死はいわば世間の人の身の上に起こるひとごとだ」と言っている。「この《ひと》とは、だれでもない世間(das Man)のことだ」。(253頁)

(2)-3 ①(※死の隠蔽への)「誘惑」と②(※死についての絶え間のない)「鎮静」と③(※「ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない存在可能」としての死からの)「疎外」は、(※現存在の日常性における)「頽落」の存在様相の特徴である!
F-4 「世間は、《死へ臨むひとごとでない存在》をおのれに隠すことを正当化し、そしてその隠蔽への①誘惑を深める」。(253頁)
F-5 「近親者たち」は普通「臨終の人」に向かって、「死なずに済んで、間もなく・・・・落ちついた日常性へもどってくるであろう」と言って「心遣い」(Fürsorge)し「慰め」る。「世間はこのようにして死についての絶え間のない②鎮静を配慮する。」(253頁)
F-5-2 「公開性」は自分が「配慮」している「屈託のなさ」を維持しようとして、「ほかの人びとの臨死」に接して「迷惑視」したり「当人の不始末」とみなしたりすることも稀でない。(253-4頁)
F-6 「世間の公開的な既成解釈」は「死へ臨む不安」を「現存在のいさぎよしとしない弱気」と言いふらし、かくて「《人は死ぬ》という事実に対する平然たる《無関心》」を養成する。現存在は《死へ臨む存在》としての
「ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない存在可能」(Cf. 251頁)(※死)から③「疎外」される。(254頁)
F-7 「①誘惑と②鎮静と③疎外は、頽落の存在様相の特徴である。」(254頁)
F-8 現存在は、「平均的な日常性」において・・・・・「(※死に対する)屈託のない無関心さ」を工夫するという配慮の様態にある。(255頁)
F-8-2 「日常的な《死へ臨む存在》」は「《死へ臨む頽落的な存在》」である。(255頁)
《感想2-2》①(※死の隠蔽への)「誘惑」と②(※死についての絶え間のない)「鎮静」と③(※「ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない存在可能」としての死からの)「疎外」は、(※現存在の日常性における)「頽落」の存在様相の特徴である!
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