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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その2):(C)(AA)「理性」C「社会」の段階の最初はa「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」である!

2024-07-09 14:55:18 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その2)(206-211頁)
(47)(C)(AA)「理性」(Ⅴ「理性の確信と真理」)C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(=「社会」)の段階の最初はa「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」である!
★ヘーゲル『精神現象学』(C)(AA)「理性」(Ⅴ「理性の確信と真理」)C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(=「社会」)の段階はa「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」→b「立法的理性」→c「査法的理性」と展開する。(206頁)
★最初のa「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」とはいったい何か?(207頁)
☆第1に、なぜ「『精神』的な動物の国」なのか?すでにこの「社会」の段階では人間はもう「個別が普遍、普遍が個別である」ことを自覚しているから、ここには「我なる我々」あるいは「我々なる我」という「精神」の概念が相当な発展に達しているから、このさいの「社会」は「『精神』的な国」である。(207頁)

☆第2になぜ「『動物』の国」なのか?それはまだ「生の直接的な『個別性』」が残っているからだ。「純粋に精神的な国」が実現せられるならば、「快楽(ケラク)」から出発した運動にとっての目標である「人倫の国」に到達したことになるが(ただいまの段階も「人倫の国」という「実体性」の「恢復」を目的としている)、まだそこまでは達していない。だから「社会」のただいまの段階は「『動物』の国」だ。「世路」(「世の中」)の場合と同じように、まだ「市民社会」の段階にある。(207頁)

Cf. 「市民社会」(「世路」)において、「自分の欲望を満たす」ことは、同時に「他人の欲望を満たす」ことであるにもかかわらず、「徳の騎士」は「世間的に成功し立派な地位についている人々」を「我欲のかたまり」などといたずらに悪く言う。(202頁)

(47)-2 (C)(AA)「理性」C「社会」の段階の最初はa「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」であるが、なぜ「欺瞞」なのか?「事そのもの」の「事」は、「仕事」であり、「仕事」(「事」)をするには、誰しも「誠実」をもって「事」に当らなくてはならない:「誠実なる意識」!
★「精神的動物の国」は第3になぜ「欺瞞」と言われるのか?この「精神的動物の国」では、みながみな、お互いに「欺しあい」をしているからだ。ホッブスは「万人が万人の狼」と言ったが、それにならって言えば「精神的動物の国」では「万人は万人の狐」だ。(207頁)

★なぜ「欺瞞しあっている」かを明らかにするには、「事そのもの」という概念を説明する必要がある。(207頁)
☆「事そのもの」は前の(A)「対象意識」Ⅱ「知覚」(真理捕捉)の段階における「物」と似たものだが、それと同じではない。(207-208頁)

《参考》「知覚」という意識(対象意識)が「物」をとらえる(受けとる)にあたり、知覚は「Wahr-nehmung」として真理をつかまえるが、しかしそれは「感覚」との比較の上においてのことであって、より高次の(意識の)段階と比較すれば、「知覚」の段階でも真理をつかむということが、じつはつねに「錯覚」だ。(104-105頁)

☆「物」は「人間の手の全然加わっていない、ただ対象として与えられたまったくの他者」であるのに対して、「事そのもの」の「事」は、「仕事」であり、「人間の手の加わった、そしてまた社会的に通用する、ないし通用することを要求するところのもの」だ。かく「事」が「仕事」であるところに、この段階も「行為」の問題に属している。(208頁)
☆ルカーチ(1885-1971)は『若きヘーゲル』(1948)で「事」を「商品」と解するが、これは間違いでない。またJ. N. フィンドレイは「事」を「ビジネス」と解するが、これも間違いでない。(208頁)

☆ところで「仕事」(「事」)をするには、誰しも「誠実」をもって「事」に当らなくてはならない。この段階(「社会」の段階の最初のa「精神的動物の国」)の意識をヘーゲルは「誠実なる意識」と呼ぶ。(208頁)

(47)-3 「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である!
★ところで、(C)(AA)「理性」C「社会」の最初の段階の「精神的動物の国」における「事」(「仕事」)が、「知覚」に対する「物」にあたるのと同じように、「事」(「仕事」)における「誠実」は、「知覚」(Wahr-nehmung)が「真理を掴むもの」(Wahr-Nehmundes)であることに相応する。(208頁)
☆しかしまた「知覚」が同時に「錯覚」であったのと同様に「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。(208頁)

《参考1》「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる。すなわちWahr-nehmung(真理捕捉)となる。このようにして「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階に移って行く。(98頁)
《参考2》「知覚」という意識(対象意識)が「物」をとらえる(受けとる)にあたり、知覚は「Wahr-nehmung」として真理をつかまえるが、しかしそれは「感覚」との比較の上においてのことであって、より高次の(意識の)段階と比較すれば、「知覚」の段階でも真理をつかむということが、じつはつねに「錯覚」だ。(104-105頁)
《参考3》「知覚はつねに錯覚である」ということをヘーゲルは強調しようとする。このときすでにヘーゲル独特の「理性あるいは絶対知」が登場し始める。「理性あるいは絶対知」は「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する」ものであって、「同一律・矛盾律」を認めず、それを「止揚」aufhebenする立場だ。(105頁)
《参考4》普通の「自然的意識」が、「同一律・矛盾律」を墨守せんとするが、じつは「そうはできない」!「物」は「一」であって、「多」とするのは「錯覚」だor「物」を「一」と考えるのは「錯覚」で、本当は「多」である!(105-106頁)
☆「自然的意識」は同一律・矛盾律を厳密に守ろうとする。普通の「自然的意識」が、それ(同一律・矛盾律)を墨守せんとしながら、じつは「そうはできないのだ」ということを証明しなければ、ヘーゲルの「弁証法的知識」すなわち「絶対知」、言いかえれば「実体は主体である」という証明はできない。がまさにそれを実行しようとするのがこの(「知覚」における)「錯覚」の段階だ。(105頁)
☆「物」は「一」と「多」の両方向を含む。「物」が「一にして多である」とすれば「矛盾律・同一律」を否定することになる。(105頁)
☆そこでこの「一」と「多」のいずれか一方を捨てて他方を認めるとするとどうなるか?(105頁)
☆一方では「一」を真理として「多」を錯覚とするとう態度が出てくる。例えば「塩」はそれ自身としては「一」であるが、感官の相違によって「多」(Ex. 舌で舐めれば辛い、眼で見れば白い)として受け取られる。かくて「物」は「一」であって、「多」とするのは「錯覚」だとされる。(105頁)
☆それと正反対に、他方では「多」を真理として「一」を錯覚とするという態度が出てくる。例えば「塩」は本当は「多」(Ex. 白い、辛い、立方形、比重)であって「一」とするのは間違い(「錯覚」)とされる。この場合、①「物」の「性質」を分離する。(Ex. 塩は白くある「限りにおいて」辛くなく、辛い「限りにおいて」白くない。)あるいは②いろんな「素」という概念(Ex. 物が光を発するのは光素、色をもつのは色素、香をもつのは香素、熱を持つのは熱素による;この「素」をヘーゲルは「自由な質料」と呼ぶ)をもってきて、「多くの」素材から「物」ができていると考える。かくて「物」を「一」と考えるのは「錯覚」で、本当は「多」であるとされる。(105-106頁)
《参考4--2》「知覚」の段階で、こうして相反した態度がこもごも取られる。即ち「知覚」は「物」について、一方では「一」を真理とし「多」を錯覚としておきながら、いつのまにか「多」を真理とし「一」を錯覚とする。なぜこのような別々の態度がとられざるをえないかというと、そもそも「物」それ自体が「矛盾」しているのに、しいて「矛盾律・同一律」を守ろうとするからだ。「物」について「一」を正しいとして「多」を錯覚としたり、あるは「多」を真理とし「一」を錯覚としたりするのは、「真理」そのものが「矛盾」したものであるからだ。「同一律・矛盾律」こそ正しくないのだ。(106頁)

(47)-3-2 「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」である例:①「仕事」(「事」)は「主観的・個人的活動」にすぎないと言い逃れする、②「キッカケを作ってやった」と言う、また「批評」においては③「あいつよりも俺の方がよく知っている」という「自慢」、④「優越意識」、⑤「寛容」・「寛大」を「誇示する」・「見せびらかす」意識、⑥「あの作家は俺が見いだしてやったのだ」と「満足」を感じる!

★(C)(AA)「理性」C「社会」の最初の段階の「精神的動物の国」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」であるとはどういうことか?ヘーゲルが「事そのもの」(「仕事」)について例をあげて説明しているのでそれを参考にしてみよう。(208頁)

★「欺瞞」①:「仕事」(「事」)は「客観的・普遍的(※間主観的)成果」であるとされているのに、「お前のやったことは、もうほかでやっている」などと批判されると、その「仕事」(「事」)は「主観的・個人的活動」にすぎないと言い逃れする。そこには「欺瞞」(「ゴマカシ」)がある。(209頁)
☆例えば、ある人が、「仕事」(「事」)を「誠実」に遂行し自分が「客観的・普遍的な成果」をあげたと信じ、それを声明するために、それを学術雑誌や学会で発表する。ところが別の人が、その人に向かって「お前のやったことは、もうほかでやっている」と言って、他の論文を指摘したりする。その「成果」を発表した男は言う。「ああそうですか。それはそうでしょうが、僕は別に(a)『成果』をあげようと思って研究しているのではない。また(b)『地位』をえたり、(c)『名声』をはくしたり、まして(d)『金』をかせごうと思って研究しているのではない。ただ研究することが面白いからやっているんだ。」この発言には「欺瞞」があることは明らかだ。(209頁)

★「欺瞞」②:あるいは(「誠実」であるはずの)「仕事」(「事」)における、次のような「欺瞞」もある。「俺の論文がヒントになって、あの男はこのことを発見したんだ。だからあいつが成功したのは俺が知恵をつけてやったからだ」という自慢話はよくあることだ。だが「客観的・普遍的な功をあげる」ことが本来、「事」(「仕事」)であり「事業」であるはずなのに、「他人が成果をあげるのにキッカケを作ってやったこと」さえもひとかどの「事」(「仕事」)とされる。ここに「欺瞞」があるのは明らかだ。(209-210頁)

★以上は論文の「作者」あるいは「行為者」の側の「欺瞞」(①②)だが、発表された論文を「批評する」という「仕事」(「事」)をする側の「欺瞞」について見てみよう。(210頁)
★「欺瞞」③④⑤⑥:「哲学の論文」でも「小説」でも、「批評する人」は、「自分は『学会などの水準をあげる』ために、また『日本人の良識を高める』ために『誠実』に『仕事』(『事』)を遂行している。正しいものを正しいとし、優れたものを優れたものとしてやっているんだ」と言うだろう。(210頁)
☆だがこの「批評」という「仕事」(「事』」)の「誠実」なはずの遂行が、実はしばしば同時に「欺瞞」である。③他人の学術上の論文の誤りを指摘する時には「あいつよりも俺の方がよく知っている」という「自慢」がある。あるいは④「普段威張っている大学の先生ともあろうものが、こんなものも知らぬとはけしからん」という「優越意識」もある。あるいは⑤若い人の論文の若干の傷を見逃してやるとき、自分がいかに「寛容」・「寛大」か「ヒューマニスト」であるかを「誇示する」意識がはたらいている。また⑥作品を批評してやった作家がその後有名になった時、「あの作家は俺が見いだしてやったのだ」と「満足」を感じる、またそんな「満足」が味わえるから批評家をやっていることもある。(210頁)

(47)-3-3 「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」:「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である!
★「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。すなわち「仕事」(「事」)という言葉で「誠実」で「客観的・普遍的・公共的」な成果だけが意味されているかと思うと、実はそうではなく例えば「単なる自己満足としての主観的活動」(⑥)であってもいいし、「他人にキッカケを与えるだけのもの」(②)でもいいし、また自分の「優越欲」(④)を満足させたり、自分の「寛大さ」を他人に「見せびらかす」(⑤)という「主観的動機」を含んだものでもあるのだから、「ゴマカシ」のあることは明らかだ。(211頁)
☆かくて(C)(AA)「理性」C「社会」の最初の段階は、「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」という見出しがつけられる。「非常にへんてこな随分変わった題のつけ方」(金子武蔵氏)だが「人間心理の機微」をよくとらえた分析だ。こういうところがヘーゲル『精神現象学』の面白みの一つだ。(211頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!
(A)「対象意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)
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