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宮崎学『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年(下)』(1996)「5 銃弾の味」(1986年、41歳):京都市に「エセ同和」が圧力をかけ、市街化調整区域を市街化区域に編入させる!

2023-08-02 12:02:41 | 日記
※宮崎学(ミヤザキマナブ)(1945-2022)『突破者(トッパモノ) 戦後史の陰を駆け抜けた50年(下)』(1996年、51歳)
「5 銃弾の味」(1986年、41歳)
(5)「土砂崩れの恐れがある」と共産党が反対運動に出張って来た!極道(「岩丸組」組長)には共産党は荷が重い!
F  1986年1月、京都の会津小鉄系寺村組内「岩丸組」岩丸幸生組長から、東京の「私」(宮崎学)に電話があった。(Cf. 「寺村組」組長は丸岡鉄太郎。)
F-2  岩丸は左京区岩倉の山林を宅地造成するつもりだが、「土砂崩れの恐れがある」と共産党が反対運動に出張って来た。立命館大の教授などインテリ共産党員が中心だ。普段ヤクザやガラの悪い実業家を相手にしている岩村は扱い方がわからない。「極道には共産党は荷が重い。学さんすまんが力貸してくれまへんか」と言われ私は京都に帰った。(下188-190頁)
F-2-2  それから約半年間、インテリ共産党員たちを、理詰めで粘り強く説得し、「土砂崩れ」の問題は6月、「工事協定書」が交わされ解決した。(下190-191頁)
F-2-3  だが共産党や地元住民だけでなく、「エセ同和」の連中や「半ヤクザ」たちも金目当てに反対を主張した。これらに対しては恫喝戦術で押しまくった。こうして「反対運動」の問題は解決した。(下191頁)

(5)-2 「岩丸の会社」(幸生総合建設)の福田:1万1000坪が市街化調整区域なので、市街化区域に編入したい!
F-3  私が東京に戻ろうとした時、こんどは「岩丸の会社」(幸生総合建設)の福田がやって来た。「買収した土地のうち1万1000坪が市街化調整区域なので、市街化区域に編入したい。なんとかなりませんか?」との依頼だった。(下191-192頁)
F-3-2  京都府の役人が「線引き」を自発的に見直すことはあり得ない。役人に強烈なプレッシャーをかけるほかない。「それができるええ仕事師がおったら、わしにつないでください。報酬はしっかり払いますから」と福田が言った。(下192頁)
F-3-3  私は福田の話を聞いて山口組系加茂田組内「M組」の若衆になっていた「北本鉄也」(中学の3年後輩、「鉄」)を思い出した。京都の極道連中から「鉄が金に詰まっている」という噂も聞いていた。(加茂田組が「一和会」に移り1986年「山一戦争」で「鉄」は追い詰められていた。)(下192-195頁)
F-3-3-2  私が福田の依頼の大筋を話すと、即座に鉄は「それ、わしのところでやらせてくれ、ええ仕事師も知っとる。不細工なことはせん」と言った。(下195頁)
F-3-3-3 さらに鉄が言った。「矢島がええやろ。矢島いう男は同和事業組合の会長で、この手の仕事がようできる男や。」私(宮崎学)が応じた。「坪1万円、1万1000坪で1億1000万円の報酬で、福田と話をつけてやる。」こうして2、3日後、福田が鉄(と矢島)に市街化区域編入工作を依頼し、着手金1000万円を支払った。あとの1億円は京都市(の役人)が「線引きを見直して、市街化区域へ編入する」と確約した時点で、福田から鉄に支払われることになった。(下196頁)

(5)-2-2 鉄、「同和事業組合」会長の矢島、会長代理の滝田が、京都市に対する猛烈な圧力攻勢を開始!「エセ同和」!
F-4  この直後から、鉄、「同和事業組合」会長の矢島、会長代理の滝田が京都市に対する猛烈な圧力攻勢を開始した。(下196頁)
F-4-2 なお矢島と滝田が属する同和団体(「同和事業組合」)は、部落解放同盟とは縁もゆかりもない私的団体で滝田は極道上がりだった。つまり「エセ同和」と呼ばれる団体だ。(下196-197頁)
F-4-3  京都市との交渉にあたったのは主に「同和事業組合」会長代理の滝田だった。風致課、都市計画課などの担当部署をひんぱんに訪れて「岩倉の土地を開発して、同和関係の者に安い住宅を提供しようと思とるんや。市街化区域に編入するよう、前向きに汗をかいてくれ」と要望する。交渉の場には担当部署の3課長が顔をそろえることが多かった。(下197頁)
F-4-3-2  滝田は「岩丸の会社」(幸生総合建設)が買収した岩倉の山林のうち9000坪がすでに市街化区域に編入されている事実を示し、交渉の場にその時の担当者も呼びつけて「理詰め」に迫った。京都市の役人の側は「事務処理の公平性」からいって、「特例」と言い逃れすることはできない。(下197-198頁)
F-4-3-3 ヤクザ上がりの滝田は時には目を据えてねめつけたり、ドスをきかせて怒鳴ったりもした。(下198頁) 
F-4-3-4 交渉開始から3、4か月後の1986年9月滝田らの執拗な圧力に押し切られて、「岩丸の会社」(幸生総合建設)の岩倉の1万1000坪の市街化調整区域について、京都市の三課長から「次の線引きの時に市街化区域とする」旨の発言を得た。これをもって岩倉の土地の市街化区域編入が決まった。(下198頁)
F-4-3-5 「お陰で、ええシノギができた」と鉄は大喜びしていた。(下198頁) 
F-5  《参考》「エセ同和の帝王」の悪名をほしいままにした「悪党」が「日本同和清光会」の尾崎清光(おざきせいこう)(1935-1984)だ。(下198-206頁)

(5)-2-3 「私」は「岩丸の会社」(幸生総合建設)の福田に、成功報酬の残金1億円の「鉄」への支払いを求めた!鉄が「岩丸組」(幸正総合建設)の事務所に乗り込んだことで、「岩丸組」のヒットマンに鉄は射殺された!
F-6  翌日、1986年9月17or18日、「岩丸組」岩丸幸生組長(幸生総合建設社長)と鉄ら(北本鉄也、「同和事業組合」会長の矢島、また会長代理の滝田)を仲介した「私」(宮崎学)は、「岩丸の会社」(幸生総合建設)の福田に成功報酬の残金1億円の支払いを求めた。(下206頁)
F-6-2  ところが福田は「今は手元に金がないので、岩丸社長と相談する」と言う。その旨を「鉄」らに伝えると、2、3日後に「同和事業組合」会長の矢島が、幸正総合建設(「岩丸組」)の岩丸に直談判した。岩丸は「むろん払うが、ちょっと待ってくれ」と答えた。Cf. 報酬の支払いが遅れるのはヤクザ世界でもありがちなことである。(下206頁)
F-6-3  だが9月24日の夕刻、しびれを切らした鉄が「同和事業組合」会長代理の滝田や自分の子分を引き連れて、幸正総合建設(「岩丸組」)の事務所に乗り込んだことで事態が急変した。(下206頁)
F-6-3-2 ヤクザの世界は面子をことのほか重んじる。聖域である「組事務所」や「組長が経営する会社」にいきなり乗り込んで強談判(コワダンパン)に及ぶような行為は喧嘩を売るに等しい。(下206-207頁)
F-6-3-3 9月24日は、「私」も鉄・滝田・鉄の子分たちと一緒に幸正総合建設(「岩丸組」)の事務所について行った。ともかく「鉄」の強談判が喧嘩にならぬよう仲裁するためだ。(下207-208頁)
F-6-4  翌日、9月25日正午、再び話し合いが「れすとらん伏見」で持たれることとなった。「M組」北本鉄也(「鉄」)、「同和事業組合」会長の矢島、会長代理の滝田、「私」(宮崎学)、「岩丸の会社」(幸生総合建設)の福田が集まった。(下209)
F-6-4-2 そこに「岩丸組」の組員2人がヒットマンとしてやって来て、「鉄」(北本鉄也)37歳を射殺した。止めようとした「私」も右腹を撃たれた。(貫通銃創だった。)さらに「同和事業組合」会長代理の「滝田」も射殺された。(下210-216頁)  
F-7  「私」はすぐに車で東京に向かった。京都(現場)から一刻も早く離れることがなすべき唯一のことだった。私は横浜で友人たちに手当された。(下216-219頁)
F-8  「岩丸組」のヒットマン2人は4日後、拳銃をもって警察に出頭した。2人はあくまでも2人の意思に基づくもので、「岩丸組」とは一切関係ないと頑強に主張した。(後に2人は裁判で懲役20年の刑を受けた。)(下220頁)
F-8-2   M組北本鉄也(「鉄」)の死が「M組」と「岩丸組」の抗争に発展することはなかった。会津小鉄の高山登久太郎会長(「岩丸組」側)と一和会系加茂田組加茂田重政組長(「M組」側)両トップの話し合いにより手打ちとなった。事件発生から数日後だった。(下220頁)
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