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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(72) 百田氏の誤り:①一木(イチキ)支隊は「ガダルカナル島」に「増援」された!②「一夜にして死んだ」のではない!③東条陸相「戦陣訓」!

2021-04-25 16:18:22 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)  

(72)百田氏の誤り①:一木(イチキ)支隊は「ガダルカナル島がまだ奪われていない段階」で「増援」として派遣された! (283頁)
M 百田尚樹『日本国紀』は「この島をアメリカ軍に奪われたと聞いた大本営は直ちに奪回を試みるが、アメリカ軍の兵力を2千人位と根拠もなく見積もり、それなら900人ほどで勝てるだろうと一木(イチキ)支隊を送り込んだ」(百田394頁)と述べる。
M-2 百田氏の誤り①:一木(イチキ)支隊は、ガダルカナル島を「アメリカ軍に奪われた」あとに送り込まれたわけでない。「ガダルカナル島がまだ奪われていない段階で、一木支隊は『増援』として派遣された。」(浮世283頁)
《参考》1942年5月、日本軍はオーストラリアと米国の補給路を分断しようと、ニューギニア東南のソロモン諸島に進出。7月に同諸島のガダルカナル島に飛行場建設を始めた。8月米軍約1万1千人がガダルカナル島を奇襲し飛行場を占領した。こうしてガダルカナル島攻防戦が始まった。

(72)-2 百田氏の誤り②:一木支隊の777人が「一夜にして死んだ」のではない!(284-285頁)
M-3 百田氏の誤り②:百田氏は一木支隊について「アメリカ軍陣地に突撃した800人の兵士のうち777人が一夜にして死んだ」(百田394頁)と述べるが、これは誤りだ。777人が「一夜にして死んだ」のではない。
M-3-2 1942年8/20 夕方6時から戦闘が始まり、イル川第1回渡川で100名、第2回渡川で200名の犠牲を出した。翌朝、退却しようとしていた一木支隊は、米軍に包囲され機銃掃射、戦車で壊滅し、また掃討戦も執拗で追いつめられた兵士は狙撃され落命した。(浮世284-285頁)

(72)-3 百田氏の誤り③:「亡くなった陸軍兵の多くは餓死だった」わけでない!(285頁)
M-4  百田氏は「結局、ガダルカナル島をめぐる攻防戦は半年近くにわたって行われ、日本軍は夥(オビタダ)しい人的被害を出し・・・・敗退した。ガダルカナル島で亡くなった陸軍兵の多くは餓死だった」(百田394頁)と述べる。(※1943年2月上旬に「転進」と2/9大本営発表。)
M-4-2 ガダルカナル島に投入された日本兵は3万1千人以上で、撤退できた者は約1万人。戦死者は5千人で、餓死・戦病死1万5千人と言われる。(『戦死叢書28 南太平洋陸軍作戦2』、亀井宏『ガダルカナル戦記』)。(浮世285頁)
M-4-3  百田氏の誤り③:百田氏が「ガダルカナル島で亡くなった陸軍兵の多くは餓死だった」と述べるのは誤りだ。「撤退することが困難な負傷者は、捕虜となることを防ぐために自決させるか・・・・戦友によって銃や銃剣などで殺害させている。」東条英機陸軍大臣が1941年1/1に示達した「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」が実行された。「陸軍兵の多くは餓死だった」というようなものではなかった。(浮世285頁)
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