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田中貢太郎(1880-1941)「村の怪談」『日本怪談全集』(1970)所収:寝ないで朝まで外を「ぐるぐると歩く」!「大石塔」を相手に角力を取った!「犬神持ちの家」!「狸」は人間と同格か、より賢い!

2024-06-07 18:30:45 | 日記
※田中貢太郎『日本の怪談』河出文庫、1985年
★「狸」に「化されて」、「家」へよう帰らずに一晩中、「某(アル)所をぐるぐると歩いていた」or「朝まで某所に坐っていた」or「朝まで墓地を歩いていた」。
《感想》①夜、人は「家」へ普通は帰る。②一晩中、寝ないで朝まで「某所」(外)を「ぐるぐると歩く」or寝ないで朝まで「某所」(外)に「坐っていた」or寝ないで朝まで「墓地を歩いていた」のは普通でない。

★「しばてん」は「子供の姿」で「角力(スモウ)をとろう」と言う。大の男がさっぱり子供の「しばてん」に勝てない。子供は突かれても全く動かず男はよろける。男は悪戦苦闘していたが、朝になって、海岸の松原の「大石塔」を相手に角力を取っていると、村の者に言われて気づく。

★「犬神」が憑く者を出す家があった。その家は「犬神持ちの家」と言われた。その家の人は「違った光る眼」を持つと言われた。
《感想》「犬神」に憑かれるとは、おそらく精神疾患だろう。

★甚内という力士は、「狸に憑かれた人」がいると、その人の背から肩を揉んで、狸を追い出した。だが甚内は「仲なおりしたい」という狸に敵(カタキ)を討たれ、たぶらかされ、その後、間もなく病死した。
《感想》「狸」は「人間」より劣った動物でなく、「人間」と同格だ。

★腕自慢の若侍が、狸を退治すると云って、ある日一人で山の中へ入って往った。ところが出家して髻(モトドリ)を切り、山の中の草の上に坐って、合掌しているところを村人に見つけられた。若侍は狸にだまされたのだ。
《感想》「狸」は普通、「人間」以上に賢い。

《参考》田中貢太郎は折にふれて「怪談は面白い。ええものじや。人間のいろいろな気持ちが深く集りよつちよるきに、これは文学の一つの究極じやと思うね」と語り残している。(「解説」尾崎秀樹)
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その4):③「不幸なる意識」(う)「中世カトリック教」における「純粋意識」・「現実意識」・「現実意識の自己否定」!

2024-06-07 12:40:57 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その4)(151-155頁)
(29)「中世カトリック教」の意識(or「中世カトリック教会」)の3つの段階(1):「純粋意識」の段階すなわち「帰依・信仰」の段階!「人間の誰しもが『人の子』であると同時に『神の子』である」ことは知られているが、「やはり『神の子』はイエスだけである」と個別的感覚的に考える!
★「イエス」が死して追憶のうちに生きるようになったとき、「イエス」は次第に「精神化」される。「神の子」は「感覚」によって見るのでなく、「普遍的に思惟され」るようになる。「神」は「外にある」のでなく、「心にある」ことになる。かくて「変じないもの」(「普遍者」)と「変ずるもの」(「個別者」としての「人の子」であるイエス)が相近づき「中世カトリック教の意識」が生まれる。(150-151頁)

★まず「純粋意識」の段階としての「中世カトリック教の意識」は、「帰依・信仰」の段階だ。(151頁)
☆まだ「概念」の立場に至っていない。(151頁)
☆「人間の誰しもが『人の子』であると同時に『神の子』である」ことは知られているが、それは「ボンヤリとわかっている」にすぎず、「やはり『神の子』はイエスだけである」と個別的感覚的に考える。(151頁)
☆それは「概念あるいは思惟Denken」と「感覚」との中間にとどまった「帰依An-dacht」という態度だ。すなわち「思惟そのもの」には到達せず、「思惟にむかっているにすぎぬ段階」だ。(151頁)
☆「音楽を奏しミサの儀式を行じて、クリストを憧憬する」という中世人の宗教意識!(151頁)

★ここでは「普遍的なもの」(※神)はけっきょく「個別的のもの」(※人間)としてとらえられているから、おのずと「聖墓を恢復しようとする運動」も生じる。すなわち「クリストの聖墓がトルコ人に占領されているから、ぜひ恢復しようという十字軍の運動」がおこる。(151頁)
☆しかし「十字軍の失敗」は、「内に求むべきもの」を「外に求める」ことから当然であり、この失敗から「普遍的精神的に神をとらえなければならない」ことが痛感せられ、「神を一層内面的にとらえ」ようとする努力が生まれる。つまり「『神』を『感覚』によって求めず、内に『精神』として求むべし」という一層高い立場が要求される。(151-152頁)。

(29)-2 「中世カトリック教」の意識(or「中世カトリック教会」)の3つの段階(2):「現実意識」の段階!「この『地上』も決してけがれたものでなく、『神聖なる神意』の表現として清浄なものである」!だが「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はなお消え失せていない!
★「『神』を『精神』として内面的にとらえよう」とする努力は、実は「十字軍の失敗」以前からもすでにあった。(事態は歴史的経過とは必ずしも平行するものでない!)(152頁)
☆この努力によって、(a)「『人間』も罪を負う『人の子』であるとともに『神の子』である」という自覚がえられ、(b)「『神』も『人間の形態 Gestalt』をもったもの」であり、いな(c)「『人間』にかぎらず『形態をもつもの』はすべて『神』の現れである」ところから、(d)「この『地上』も決してけがれたものでなく、『神聖なる神意』の表現として清浄なものである」ことになる。(152頁)

★この意味で「中世クリスト教の現実的意識」にも肯定される面がある。(152頁)
☆そうなると「欲望し享楽するというような現実的活動」も同様だ。(152頁)
☆「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はすでに解決されているといってもよいかのように思われる。(152頁)

★だが「中世カトリック教」のこの「現実意識」の段階においては、「分裂」はすでに解決されているわけではない。(152頁)
☆①なるほど「人間」はいろいろと「享楽することができる。しかしこれは(「人間」の)「自分の力」によることではない。「日々のパン」も「野原の羊」も「それからとった着物」などはすべて、「神」から与えられたものだ。(152頁)
☆①-2だから「彼岸的なもの」(「神」)が別にあり、「人間」である自分自身には十分な「現実性」はなく、十分の「力」もないということになる。(152頁)
☆②また「労働」していろいろの「欲望」を充足するには「才能や努力」がいるが、これらも「神」によって与えられたものである。(152-153頁)(Cf.  神の「gift」=「才能」!)

☆かくて「永遠の聖なる神」と「みにくき個別的自己」(「人間」)との「分裂」はまだ十分に克服されていない。(153頁)

★もっとも、日々のパンも神が賜うたものであるから「人間」は神に感謝し、そうして「神」は食物や才能をも人間に与えるというように、「『神』と『人』との間に『相互承認即ち完全なやわらぎ』が成り立つ」ように思われる。(153頁)
☆しかし「人間」には(ア)「『神』に感謝しているから、これぐらいなことはやってもよいだろう」というように、「神への感謝」を「誇り」・「功徳」にするという「私」(※私情)(※「個別性」)があり、また(イ)「人間」の「欲望や享楽の意志」には「個別性」が残っていることは明らかである。しかも他方「神」は「個別性」を超えた、したがって「普遍的絶対的」のものだから、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はなお消え失せていない。(153頁)

★そこで「中世カトリック教」のこの「現実意識」の段階における、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」を克服するには、(3)「現実意識の自己否定」が必要だ。(153頁)(後述)
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