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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その1):「観察」とは、「記述」に出発して「標識」を見いだすことを通じて「法則」を定立することだ!

2024-06-16 19:25:22 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その1)(160-163頁)
(32)ヘーゲル『精神現象学』(C)(AA)「理性」A「観察的理性」、あるいは1「観察」(金子武蔵)にかんする全体の見透し!「観察」とは、「記述」に出発して「標識」を見いだすことを通じて「法則」を定立することだ!
★ヘーゲル『精神現象学』(C)(AA)「理性」A「観察的理性」あるいは1「観察」(金子武蔵)にかんして全体の見透しを確認する。(160頁)
★(「観察的理性」における)「観察」とは、全般的に言えば「記述」に出発して「標識」を見いだすことを通じて「法則」を定立することだ。(161頁)
☆発見せらるべき「法則」には「自然」の法則、「精神」の法則、「自然と精神の関係」の法則の3つがある。(161頁)

★「基本法則」は「『外なるもの』は『内なるもの』の『表現』である」ということだ。(161頁)
☆これには、次のような場合がある。(161頁)
(イ)「有機体」と「環境」との関係
(ロ)「感受性」と「反応性」と「再生」との関係
(ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(※「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係
(ニ)「比重」(※質量)と「凝集力」との関係
(ホ)「論理学的心理学的法則」(※「論理学的法則」と「心理学的法則」)
(ヘ)「人相術」
(ト)「骨相術」
(注)なお(イ)から(ト)まで、順序はヘーゲル『精神現象学』のテキストのままだが、表現は必ずしもそのままでない。(161頁)

《参考1》 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」の段階の課題は、「範疇」(※理性)をまず①「対象」に即して展開すること、次に②「自己意識」に即して展開すること、最後に③「『対象』と『自己意識』の統一」に即して展開することだ。これらの3つが(金子武蔵の目次においては)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」である。(160頁)
《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次では、(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)である。

(32)-2 ヘーゲルの「観察」の考え方は、「近代科学の精神」とよく合致している!
★なぜ「理性」が1「観察」(Cf. 2「行為」3「社会」)しなければならないかというと、「自己」はすでに「対象」であることを「確信」はしているものの、この「確信」はまだ「客観的真理」にまで高まってはおらず、高めるためには具体的な「観察実験」を行わねばならないからだ。(Cf. (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」)(161-162頁)
☆これは「近代科学」のある面を正しくとらえたものだ。(162頁)
☆なぜなら「近代科学」における「観察」とは、「単なる観察」でなく、すでにある一定の「見当」(Ex. 「ある星とある星の間に、これこれの距離のところにもう一つの星があるはずだ」)をつけて、これを「テスト」する(Ex.「望遠鏡で新しい星を確認・発見する」)ためのものだからだ。いいかえると「観察」といっても、すでに「実験」の意味を含んでいる。(162頁)

★「あらゆる『実在』を『自己』が『確信』している」というのは「アイディアリズム」だが、「その『確信』が主観的たるにとどまって、まだ客観的でないために、『観察』や『実験』が必要となる」ところからすると、右の「アイデアリズム」は同時に「経験主義」であるとヘーゲルは考えている。(162頁)
☆この点でもヘーゲルの考えは「近代科学の精神」とよく合致している。(162頁)
☆ただし「近代科学」の実情と比較すると、この「観察」という段階におけるヘーゲルの取り扱いには、いろいろな欠陥がある。(163頁)
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