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田中貢太郎(1880-1941)「宝蔵の短刀」『日本怪談全集』(1970)所収:御宝蔵から小谷の持物であった短刀を盗んで逃げた盗賊=小松益之助(御宝蔵方)は、「ドッペルゲンガー」だ!

2024-06-10 16:12:46 | 日記
※田中貢太郎『日本の怪談』河出文庫、1985年
★小松益之助は新たに御宝蔵方になった。かれには高知の城下に新たな邸が与えられた。
☆その邸は小谷政右衛門が元住んでいたが、「小谷」は讒言せられて切腹を命ぜられ、「家財」は没収された。(貴重なものは「御宝蔵」に保管された。)
☆その後、「その邸には不思議なことがある」と云う噂が立ち、暫く空き家になっていた。
☆小松益之助は豪胆な男で、年も三十前後、知人から怪しい噂を聞かされても笑っていた。益之助は女房と二人暮らしだった。

★新たな邸に移って二十日ばかりは何も起きなかった。ところがある夜、夜中に「がたり」と大きな音がした。雨戸を開けると物干竿が十本ばかり庭の真ん中に転がっていた。朝になると物干竿は影も形もなかった。益之助は笑いだした。
☆次の夜、寝床で、女房が物干竿のことを話出した。「なに、狸かなにかだろう」と益之助は取り合わなかった。また夜中に「がたり」と大きな音がした。物干竿が十本ばかり庭の真ん中に転がっていた。だが朝になると物干竿は影も形もなかった。益之助は「またやったな」と笑うだけだった。
☆三日目の夜も同じことが起き、朝には宵の庭の竹は一本もなくなっていた。

★四日目、益之助と女房が待ったが、夜中に「がたり」と大きな音がすることがない。益之助は寝てしまった。ところが女房がうとうとしていると「もし、もし、・・・・もし」と「女」の声がした。女房は「夫の隠し女」ではないかと疑った。「色の白い痩せぎすな女」が雨戸にくっつくようにして立っていた。
☆「女」は「御主人におめにかかりたい」と言った。女房は嫉妬に駆られ、嘲って言った。「主人は留守でございます。」「この夜更けに、お壮い御婦人が、よくまあ、こんな処にお出でになりました。」「女」は「またまいります」と言って、門を出て木立の傍らで見えなくなった。
☆翌朝、夫の益之助は「物干竿の音はしなかったな」と言って、いつものように飯を食って、ふだんのように城に出仕した。女房は昨晩訪ねてきた「女」の話を益之助にしなかった。だが女房は「疑念」が晴れない。

★次の夜、益之助が眠ってしまうと、再び「もし、もし、・・・・もし」と「女」の声がした。女房は嫉妬に駆られ憤って、「主人は、この比、毎晩留守でございますから、お出でになりましても、当分お目にかかれますまい」と言った。「女」は二三度頭を下げて何か云い、門を出て木立の傍らで見えなくなった。
☆その時、益之助は夢を見たのかぶつぶつ言ったが、目を覚ますことはなかった。

★その次の夜も、「女」はやってきた。益之助の女房は「あれ程、主人はこの比(コロ)留守であると申し上げたのに困ります」と腹立たしそうに言った。
☆「女」は顔を上げた。涙が両目に光って見えた。「女」が言った。「私は小谷の女(ムスメ)でございます。私の家には先祖から伝わった短刀がございましたが、家が没落した時、その短刀は御宝蔵の中へ納めれられました。どうぞ御宝蔵方になられたご主人にお願いして、それを執りだし、祭りをしてくださいませ。そうでないと、私たち一家の者が浮かばれません。」
☆「御主人がその短刀を執りだすのが無理なら、私が執りだします。ただ祭りをしてくださいませ」と「女」は言った。

★女房の眼が暗んできた。女房がアッと云って倒れた。その時、女房は寝床の上に仰向けに倒れたのであった。寝床の益之助が女房を抱き起した。女房はやっと気がついて恐ろしそうにして益之助の顔を見た。

★朝になって起き上がろうとした女房の枕頭に「白木の鞘に入れた短刀」があった。奇怪なその短刀はすぐ小松益之助の家の仏壇に置かれた。

★その朝、藩庁に宿直していた役人の許へ「御宝蔵」の番人が来た。番人は「昨夜、御宝蔵へ盗賊が入って小谷の持物であった短刀を盗んで逃げたが、その後ろ姿は、新たに御宝蔵方になった小松益之助にそっくりであった」と云った。
《感想1》昨夜、御宝蔵へ盗賊が入った時刻、「小松益之助」は自分の邸にいて女房を介抱していたのであり、邸を出ていない。御宝蔵から小谷の持物であった短刀を盗んで逃げた盗賊=「小松益之助」は、「ドッペルゲンガー」だ。Cf. 「ドッペルゲンガー」とは「同じ人物が同時に別のor複数の場所に姿を現す」ことだ。

★小松益之助が朝飯を喫っていると、藩庁の「詮議の者」が突然来た。ところが益之助はかの「短刀」が自分の邸に来た筋道を説明できなかった。
《感想2》「小谷の女(ムスメ)」は「御主人がその短刀を執りだすのが無理なら、私が執りだします。ただ祭りをしてくださいませ」と言ったのだから、藩庁の「御宝蔵」から短刀を執りだしたのは「小谷の女(ムスメ)」だ。
《感想2-2》「小谷の女(ムスメ)」は怪異の存在であり、その魔術的力によって、御宝蔵方の小松益之助の「ドッペルゲンガー」を出現させ、その「ドッペルゲンガー」に短刀を盗ませ、益之助の女房の枕元に置かせた。
《感想2-3》だが小松益之助自身は、自分の「ドッペルゲンガー」が短刀を盗んだことを知らない。かくて「益之助はかの『短刀』が自分の邸に来た筋道を説明できなかった。」

★益之助にとっては、まったく覚えのない罪状は、彼にとっては「讒言せられ」たに等しい。益之助は自分の「潔白」を訴えるため、「女房を殺した後で自分も自殺してしまった。」
《感想3》「小谷の女(ムスメ)」の怪異な存在について語った「女房」も、藩庁の者たちによって信じられることはないだろう。だから益之助は「女房」をも、彼女の名誉のために殺した。
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その5):『精神現象学』の目的は、「反省」の媒介を尊重しつつ「実体性を恢復する」ことだ!「実体性の立場」!

2024-06-10 13:02:14 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その5 )(155頁)
(30)「実体性の立場」とは「個人が独立性を主張せずに絶対者に帰依し、あたかも(個人が)実体に対する属性のごとくそれ(実体)に帰属している」というものだ!「実体性の立場」とは(中世クリスト教の)「信仰の立場」だ!
★翻って考えてみると、「序論」においてヘーゲル『精神現象学』の目的は、「反省」の媒介を尊重しつつ「実体性を恢復する」ことだと述べた。(155頁)
★ところで「実体性の立場」とは「個人が独立性を主張せずに絶対者に帰依し、あたかも(個人が)実体に対する属性のごとくそれ(実体)に帰属している」というものだ。(155頁)
☆したがって「実体性の立場」とは「信仰の立場」だ。(155頁)
☆「中世クリスト教」のもとにおける「人間」が、「日々の糧」も「能力」も「才能」も「神の与え給うところのもの」であると感じて「感謝」し、「貪らず所有を喜捨寄進」し、また「なにごとについても教会の指示を仰いで生活」していたということは「実体性の立場」にほかならない。(155頁)

★実をいうと「実体性の立場」が、「恢復せらるべき、また分析せらるべき全体」として『精神現象学』のかくれた前提だ。(155頁)
☆この観点からすれば「感覚」・「知覚」・「悟性」という(A)「対象意識」の諸段階も、また(B)「自己意識」の諸段階も、じつは「反省」の分析によって定立せられたものにほかならない。(155頁)

★(B)「自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」(クリスト教)において「実体性が恢復された」が、これはいいかえると「実体が主体となった」ことを意味する。(155頁)
☆「不幸なる意識」(中世カトリック教orクリスト教)を通ずることによって、「理性という絶対知」が到達せられた。(155頁)

★「反省の媒介」にはまだ不十分なところがある。その不十分を補うのが、今後の叙述((C)(AA)「理性」・(BB)「精神」・(CC)「宗教」・(DD)「絶対知」)の目的だ。(155頁)

《参考1》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、それを深めてゆく」!(73頁)
☆「普通の認識」に対して、「真の絶対知の立場」においては、「主語」は「不動の実体」というものではない。「絶対知」における「主語」は「存在的・客体的なもの」ではない。(73頁)
☆「絶対知の立場」においては「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、その反省を自分自身で深めてゆく」ものである。(73頁)(※この「絶対知の立場」(73頁)は「実体性の立場」(155頁)とも呼ばれる。)
☆ここに初めて「真の哲学的認識」が出てくるとヘーゲルは言う。(73頁)
☆ヘーゲルでは、文法上の「サブジェクト」(Cf. 「主語」)に当るものが、我々人間と同じような「サブジェクト」(Cf. 「主体」・「主観」)だ。「サブジェクト」は、「自分は何々である」という判断を、自分自身で行う。(73頁)
Cf. 「悟性の反省」の「媒介」を通ずることによって、「実体」は「主体」となる。じつは「実体」を「主体」に転換させることこそが『精神現象学』の目的だ。(69頁)

《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次。(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考2-2》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次。
(A)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(B)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(※金子武蔵氏は「自己意識」も3段階にわける。)
(C)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
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