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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その10):「人相術的法則」において「外は内の表現である」という命題の成立は一応認められるが「概念」的には成立しない!

2024-06-29 17:59:23 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その8)(184-185頁)
(40)「外は内の表現である」という命題:(ヘ)「人相術」!(ト)「骨相術」! 「外なるものは内なるものの表現である」という法則はやはり「概念」的には成立しない!
★ヘーゲルは「個性は環境によって限定される」という見方は、「抽象的な分別悟性」のものにすぎぬとして、「心理学的法則」の立場をもしりぞける。すなわちヘーゲルは「心理学」においても、「外なるものは内なるものの表現である」という法則はやはり「概念」的には成立しないと言う。(183-184頁)(既述)

★そこでもっとこの「概念」的関係に適合しそうな対象を求めて、「観察的理性」はさらに内面に向かってゆくことによって、(ヘ)「人相術」(「(「観相学」)」)と(ト)「骨相術」(「骨相学」)とが扱われることとなる。(184頁)
☆ヘーゲルは(ヘ)「人相術」と(ト)「骨相術」についてじつに長々と述べる。このへんは①「精神物理学的問題」(「心身関係」の問題)や、②「唯物論」的問題も含み、相当重要な箇所だが、それにしても詳しすぎる。(184頁)
☆しかしここにも当時の事情が影響している。(ヘ)「人相術」はラファーター(Johann Kasper Lavater)(1741-1801)によって、(ト)「骨相術」(「骨相学」)はガル(Franz Joseph Gall)(1758-1828)によって、それぞれ提唱され、世間をさわがせ、やかましい問題になっていた。ヘーゲルは彼らに対し自分の態度を表明した。(184頁)

《参考1》ラファーターの「人相術」((「観相学」))(Physiognomy)は、顔立ちや体型をもとにその人の性格を知ることができることを説いた『観相学断片』(『人相学断章』)(4巻、1775年-1778年)(それまであった多くの「人相学」の文献をまとめたもの)によって知られる。なおラファーターの「観相学」の理論は18世紀後半のドイツ社会にシルエットの流行をもたらした。
《参考2》ガルの「骨相術」(「骨相学」)Phrenologieによれば、脳は「色、 音、言語、名誉、友情、芸術、哲学、盗み、殺人、謙虚、高慢、社交」などといった精神活動」に対応した27個の「器官」の集まりとされ、各「器官」の働きの個人差が頭蓋の大きさや形状に現れるとされた。初期の脳機能局在論である。

(40)-2「外は内の表現である」という命題:(ヘ)「人相術」(「観相学」)!「人相術的法則」において、「外は内の表現である」という命題の成立は一応、認められるにしても、本当には、すなわち「概念」的には成立しない!
★「人相術」(「観相学」)は、「顔つき」とか「ものごし」とかは、「人となり」や「性格」、またどんな「感情」・「意志」・「意図」等を持っているかを示すとする。「外面」(「顔つき」とか「ものごし」)は「内面」(「感情」・「意志」・「意図」等)への反省を伴う(示す)。(184頁)
☆「表情」(「顔つき」とか「ものごし」とか)において、「外は内の表現である」ということが成り立つだろうというわけで、ヘーゲルは「人相術的法則」を取り上げる。その(「外は内の表現である」ということの)成立は一応、認められるにしても、本当には、すなわち「概念」的には成立しないと、ヘーゲルは言う。(184-185頁)

★その理由は、ヘーゲルが「人格」や「精神の自由」を高調するところにある。(185頁)
☆たとえば「ニコニコしている」としても、必ずしも「好意をいだいている」証拠でなく、「だまそうと思ってそうしている」場合もある。(185頁)
☆かくて「人相」や「表情」が、必ずしも「内面的なもの」を表現しているわけでない。(※つまり「外は内の表現である」という命題は成り立たない。)(185頁)
☆要するに、「精神はもっと自由なものである」というところから、ヘーゲルは「人相術」(「観相学」)にも反対している。(185頁)

《参考1》《 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」》あるいは《(三)「理性」1「観察」》における「自然観察」は、「無機物の観察」が、いつしか「有機物or有機体の観察」にうつり、後者に重点が置かれる。かくて前者(無機物)の「法則」が、後者(有機物or有機体)の「法則」になってしまう。(172頁)
☆ところで「法則」とは、「相反するものの綜合」として「相反するものが相反しながら帰一し、しかもまた対立に分裂すること」だ。(172頁)
☆「法則」についてのそういう考え方に、(「自然観察」において)もっとも適当しているのは「有機体」だ。「有機体」はそれぞれ独立的なもので、「環境」から自由に食物その他のものを摂取して、「自分」を形成して生きている。たとい「外」へ関係しても、けっきょくは「自己保存」のために働いており、なんとしても「個体」としての自分自身を、また「種族」としての自分自身を「再生」することをめざしている。(172頁)
☆だから「有機体」は、「外」へ関係するにしても、けっきょくは「自分自身」へ帰ってくるのだから、「外」といってもじつは「内」と区別のないものだ。(172頁)

《参考2》「有機体」において、「外」はやはりある。しかし「内と外」といっても相即しているから、「外は内の表現である」という関係が成立する。(172頁)
☆すなわち「生物」と「環境」との関係において、「外は内の表現である」という命題が成立する。この命題は「観察」(※《 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」》)の全体に対して基本的意義を持つ。(172-173頁)
☆「観察的理性」の段階に関して、これからの課題はこの命題「外は内の表現である」を種々の場合について検討することだ。この検討は次の順序で行われる。(イ)「有機体」と「環境」との関係、(ロ)「感受性」と「反応性」と「再生」との関係、(ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係、(ニ)「比重」(※質量)と「凝集力」との関係、(ホ)「論理学的心理学的法則」(※「論理学的法則」と「心理学的法則」)、(ヘ)「人相術」、(ト)「骨相術」。(173頁)
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