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松尾正(1954-)「『デカルト的省察』(E・フッサール)と精神分裂病者――他者の〈二重の二重性〉と分裂病者の現出に関する一試論――」(その1):明証的に与えられぬ他者の存在そのものが、明証的だ!

2021-10-27 19:45:01 | 日記
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収

第1節「他者の二重の二重性」
(1)フッサール:「私」に対する「他者」の「他者性」=「絶対的超越性」=「絶対的外部性」!
A 「他者とは何か」という問いに対しフッサールは次のように答えるだろう。「他者とは私に決して根源的に与えられぬものである」と。(61頁)
A-2 フッサールは「私」に対する「他者」の「他者性」=「絶対的超越性」=「絶対的外部性」を直視した。(61頁)
A-2-2  フッサールは「自我論的哲学」の内部に「絶対的真理」を見出そうとしたことによって、その「自我」の前に「超然と立ちはだかる他者の絶対的外部性」に激突した。(61頁)
《感想1》ここで「私」は超越論的な「私」だ。また「他者」は超越論的な「他者」だ。
《感想1-2》ここで「他者」とは、「自我」と同等の権利をもつ「他我」のことだ。単なる「他なる対象」としての「他者」ではない。
《感想1-3》「自我」は超越論的主観性としての自我であり、「他我」は超越論的主観性としての他我である。

(1)-2 「知覚」:「事物ないし出来事」を「それ自身現在するもの」として把握する!(61頁)
A-3 フッサールは終始、「他者の外部性」(※「他者性」=「絶対的超越性」=「絶対的外部性」)に突き当たった。(61頁)
A-3-2 フッサールによれば、「知覚」とは「事物ないし出来事」を「それ自身現在するもの」として把握する「直観的思向」だ。(61頁)
《感想2》「それ自身現在するもの」として把握するとは、《そのもの》が把握されることであり、《像》ではないということだ。

(1)-3 フッサール:《心的現象》を、《ありのままに直観する》ことはできない!(62頁)
A-3-3 これに対して私は「告知する人物(※他者)をまさに《人格》たらしめている《心的現象》を、《ありのままに直観する》ことはできない。」(フッサール『論理学研究第2巻』)(62頁)
《感想3》だが評者の私見では、「他者」が、《「自我」と同等の権利をもつ「他我」のことだ》と気づくためには、「他者」を「それ自身現在するもの」として把握する「直観的思向」(知覚)が必要だ。

(1)-4 フッサール:「他人や他人の心的生活は、確かに『それ自身そこに』、しかも他人の身体と一緒になってそこにあるものとして意識されている」!(62頁)
A-3-4 「他人や他人の心的生活は、確かに『それ自身そこに』、しかも他人の身体と一緒になってそこにあるものとして意識されているが、しかし、他人の身体が《原的に与えられたもの》として意識されるのと同じようには意識されないのである。」(フッサール『イデーンⅠ-1』)(62頁)

《感想3-2》評者の私見では、フッサールは「他人や他人の心的生活は、確かに『それ自身そこに』、しかも他人の身体と一緒になってそこにあるものとして意識されている」と言うのだから、実は「他人や他人の心的生活」も他人の身体と同様に「《原的に与えられたもの》として意識される」(つまり「知覚」)される(※「間接呈示」されるのでない)と考えるべきだ。そうでなければ「他者」が、《「自我」と同等の権利をもつ「他我」のことだ》と気づかれるはずがない。
《感想3-2-2》直接の出会いのうちで、相手の息づかい、ぬくもり、表情(以上は他人の身体)、喜び・慰め(これは他人の心的生活であり同時に私の心的生活であり、両者が一者として生じている)が、「確かに『それ自身そこに』・・・・あるものとして意識されている」。「他人の心的生活」が「それ自身現在するもの」として(私の心的生活と区別しえぬ一者として体験され)把握されることは「知覚」に相当することといってよい。(間接呈示されるのでない。)「他人の心的生活」の「知覚」に相当すると呼びうるものは、《心的共感》(フッサールは「感情移入」と呼ぶ)と言えるだろう。
《感想3-2-3》ただしその場合「他人や他人の心的生活」の総体はもちろん「原的に与えられる」わけでない。それらは「地平」として類型的に与えられる。

(1)-5 フッサールの明証の概念:明証(Evidez)、十全的明証(Adäquate Evidenz)! Cf. 必当然的明証(Appodiktische Evidenz)!(62頁)
A-4 「明証(Evidez)」:何の疑いもなく、現出者がその現出者それ自身として(※「像」ではない!)そこにあるがままに現出していること、その現出によって現出者が、直観的に現在化され充実されていること、これがフッサールの「明証(Evidez)」ということだ。(62頁)
A-4-2 「十全的明証(Adäquate Evidenz)」:あらゆるものは、ある一つのアスペクト与件としてそのパースペクティヴ性において与えられ、その背後に充実されざる暗い地平的現象(※《として》構造or類型的・イデア的把握)を伴う。つまりあらゆるものは「十全的明証」において与えられることはない。しかしあらゆる現象は、その「十全的明証」を極限理念として「その究極的目標に向けて無限に接近してゆく」(新田)ことができる。(62頁)
A-4-3 Cf. 必当然的明証(Appodiktische Evidenz)」:フッサールにおいて「明証」とは、直観される事象を、決して変わらぬ恒常的な明証性をもって与えられる領域、つまり現象学的還元を通し、「必当然的明証(Appodiktische Evidenz)」において与えられる超越論的自我の領域でのみ取り扱い、その構成を問うことを意味した。超越論的自我が自分で実際見ることのないものについては、いっさい言及しないようにすること、それが超越論的現象学の理念的立場だった。(62頁)

《感想3-2-4》評者の私見では、《直接の出会い》(A. Schutzの「直接世界Umwelt」)のうちで、「他人の心的生活」が「それ自身現在するもの」として把握される、つまり「知覚」に相当すること、あるいは《心的共感》とでも呼ぶべきものが生じる。
《感想3-2-5》その場合「他人や他人の心的生活」の総体(「十全的明証」)はもちろん「原的に与えられる」わけでない。それらは地平として類型的に与えられる。
《感想3-2-5-2》要するに、「他人の心的生活」は、直接の出会いのうちで、「それ自身現在するもの」として把握される、つまり「知覚」に相当する出来事が生じる、あるいは《心的共感》とでも呼ぶべきものが生じる。
《感想3-2-5-3》直接の出会いのうちで《心的共感》(あるいは相互的な「感情移入」)において、「それ自身現在するもの」として把握される「他人の心的生活」は、その背後に充実されざる暗い地平的現象(※《として》構造or類型的・イデア的把握)を伴う。
《感想3-2-5-3》つまり「他人の心的生活」は「十全的明証」において与えられることはない。しかし「他人の心的生活」は、その「十全的明証」を極限理念として「無限に接近してゆく」。そのようにして「他人の心的生活」は「私」によって把握されていく。(評者の私見)

(1)-6 「他者の現象」の二重(※二種類)の二重性:①身体物体性(Körper)と生ける身体性(Leib)!②原信憑として、他者の存在はすでに初めから明証的である!(62-65頁)
A-5 「他者の現象」の二重性①:「私が見ることができる身体物体性(Körper)」と「私が見ることが出来ぬ他者に固有の生ける身体性(Leib)」(※《他者の心=他なる超越論的主観性》)との隔たり。(63頁)
A-5-2  すなわち、「視点に対する視像としての《物体性》」と「その視像として照らし出されざる《暗闇》(※他者の心)」という他者の「第1の二重性」。(65頁)

A-6 「他者の現象」の二重性②:これは「他者一般のアプリオリな明証性」あるいは「他者実在の絶対的な確証性」のことだ。一方で私に「明証的に外部知覚される物体」について、他方で私は「その物体が目に見えぬ他者(《他者の心=他なる超越論的主観性》)に属する身体であると明証的に確信する」。「原信憑として、他者の存在はすでに初めから明証的である」。(63-64頁)
A-6-2 すなわち「明証的に与えられぬ他者の存在そのものが、明証的である」という他者の「第2の二重性」。(65頁)
A-6-3 なおこの「原信憑的な他者」は、「世界一般」と「自我自身」のアプリオリな明証性と共に、原受動的な領域における「地平形成の制約となるもの」(新田)として分析されねばならない。

A-7 かくてこの「二重の二重性」によって、現象学は「他者」を最大のアポリアとなさざるをえなかった。(65頁)

《参考1》E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』第4部 他者と目的論(ちくま学芸文庫、2015年)「それぞれの自我は一つの『モナド』である。だがこれらモナドは窓を持つ。それらのモナドは、別の主観が実質的に入り込むことができないという意味では、窓も扉ももたないが、別の主観は窓をとおして(窓とは感情移入のことである)経験されうるのであって、それは自分の過去の体験が再想起をとおして経験されうるのと同様である。」(257頁)

《参考2》新田義弘(1929-2020)「序論 他者論の展開の諸相――現象学における哲学と精神医学との交差領域に定位して」(新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収)
★他者は「私ではないという与えられ方」をしている!
フッサールの問いは「私ではないが、私と同じ構造をもつ他者(※超越論的主観性としての他者)をどのようにして理解できるのか」という問いである。他者は「私ではないという与えられ方」をしている。(14-15頁)
★ だが「事物への関り(①)」も、「自己自身への関り(②)」も、「他者への関り」と同様に「否定性(『~ではない』)の構造をもつ関係」である!
そもそも「事物は対象化的に認識されうるし、また自己の内部は自己自身に直接に直観されうるのに対して、他者だけが否定性を介して与えられる」との見解は、「現象学」(フッサール)と無縁である。フッサールにおいては①「事物」について「射映的な与えられ方」が探られ、志向性の構造として「意味論的な差異性」(『~として』規定する仕方)が取り出された。これが後期のフッサールでは「地平現象」として緻密に分析される。②「自己への反省的関わりを可能にする原初の出来事」は、「自己分裂として生起する差異化現象」(※「生き生きした現在」)である。要するに「事物への関り(①)」も、「自己自身への関り(②)」も、「他者への関り」と同様に「否定性(『~ではない』)の構造をもつ関係」である。(15頁)
★否定性を介して私と他者とが密接に属しあう構造:「われわれ性(Wirheit)」(「われわれ-構造」)!
他者と私との関りにおいては、《「私は他者でない」、「他者は私ではない」という否定性を介して私と他者とが密接に属しあう構造》(※超越論的モナドの共同体)が機能している。この構造は「われわれ性(Wirheit)」(「われわれ-構造」)と呼べる。この「われわれ性(Wirheit)」は、「ない」(否定性)を亀裂として内に抱いて非主題的にのみ機能するアノニム的な媒体である。(Cf. 「生きられる身体性」、「生き生きした現在」。)したがって「われわれ-構造」の有する「否定性」のゆえに、私や他者がそれぞれに人間関係の「基体」とされるとき、私や他者はすでに一つの「抽象」の産物(※対象)と化す。(16-18頁)
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