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松尾正(1954-)「『デカルト的省察』(E・フッサール)と精神分裂病者――他者の〈二重の二重性〉と分裂病者の現出に関する一試論――」(その5):「事物様対象」として我々に与えられる「分裂病者」!

2021-10-31 12:57:40 | 日記
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収

第5節「分裂病者の前の私自身の不自由」
(5)「絶対的な外部性」である《他なる超越論的主観性》!「事物様対象」としてわれわれに与えられる「分裂病者」!(77-79頁)
E 「明証的に直観可能な《事物様対象》」としてわれわれに与えられる「分裂病者」は、結局「第3の道が塞がれている」こと、つまり「絶対的な外部性」(※他なる超越論的主観性)としてわれわれに「分裂病者」が与えられないことを、意味する。(77-78頁)

《感想1》ここで「絶対的な外部性」とは、《超越論的な他我》(他なる超越論的主観性)ということだ。
《感想1-2》「絶対的外部性」である他者は、「われわれ」によって包摂されないし、包摂されてはならないのだ。フッサールほど、「第3の道」の存在、つまり「自我にとって決して根源的に与えられぬ他者の絶対的超越性」というものに気づいていた者はいなかった。(77頁)
《感想1-3》評者の私見では、「絶対的他者性」が「絶対的」であるとは、無条件に「心的生活を生起させる《物》」(「他なる身体」or他なる超越論的主観性)が存在するように「この世界が出来ている」ことだ。
《感想1-3-2》この「他なる身体」は「自他未分化的に未分離な《一者》である心的生活が生起する」こと(《心的共感》or「感情移入」)によって生じる。Cf. この場合、もちろん同時に「私の身体」となる《物》も生じる。
《感想1-3-3》すでに述べたが、直接の出会いのうちで、一方で相手の息づかい、ぬくもり、表情等(以上は他人の身体)が根源的に呈示され、実は他方で喜び・慰め等も、《他人の心的生活かつ私の心的生活である》ような一体的生起として、つまり《一者》として生じており、この限りで(※評者の私見では)「根源的に呈示」され、「確かに『それ自身そこに』・・・・あるものとして意識されている」。
 
《感想2》《直接の出会い》においては、「他人の心的生活」が「それ自身現在するもの」として、「私の心的生活」と区別しえぬ《一者》として《生起している》。評者の私見では、この場合、他者の「心」(超越論的主観性)が根源的に呈示されるといってよい。(他者の「心」が間接呈示されるのでない。)「他人の心的生活」の根源的呈示は、《心的共感》(フッサールは「感情移入」と呼ぶ)という《一者》的出来事(Cf. 木村の「自他未分化な領域」)において生じる。
《感想2-3》ただしその場合「他人や他人の心的生活」の総体はもちろん「原的に与えられる」(「根源的に呈示される」)わけでない。《直接の出会い》の場合以外は、他者が、根源的に与えられることはなく、ただ《類型的にor地平的に》間接呈示されるだけだ。
《感想2-3-2》言い換えれば、《心的共感》(フッサールは「感情移入」と呼ぶ)という《一者》的出来事において根源的に呈示される「他人の心的生活」も「地平」を持つ、つまり類型的に与えられる。
《感想2-3-3》この場合、「地平現象」が可能なのは、「他人の心的生活かつ私の心的生活である」ところの「一体的生起(《一者》)」という出来事が現に生じており、この限りで「他人の心的生活」が「根源的に呈示される」からだ。

《感想3》「分裂病者」においては、《心的共感》(フッサールは「感情移入」と呼ぶ)という《一者》的出来事(Cf.木村の「自他未分化な領域」)が生じないので、「他人(分裂病者)の心的生活」の根源的呈示がなされない。(「絶対的な外部性」としてわれわれに「分裂病者」が与えられない。)かくて、「分裂病者」は「事物様対象」として与えられる。
《感想3-2》「他人(分裂病者)の心的生活」の根源的呈示がなされないことは、「分裂病者」が「絶対的な外部性」(他なる超越論的主観性)として、われわれに与えられないということを意味する。
《感想3-2-2》ただしここで「絶対的」とは、「他」であること、あるいは「外部性」ということだ。
《感想3-3》「他」であり、あるいは「外部性」である、つまり「絶対的な外部性」である《他なる超越論的主観性》(=「他人の心的生活」=《他者の「心」》)が、根源呈示されることがなければ、《他なる超越論的主観性》の(矛盾的だが)「絶対的な外部性」が気づかれることはない。
《感想3-3-2》なお「事物」は根源呈示される。

E-2 「我々の前の分裂病者」は「生き生きした絶対的未来性」(※他なる超越論的主観性)としてわれわれ自身の存立根拠において到来せず、我々自身の自由を生き生きと賦活しえない他者(=「事物様的対象」)だ。(78頁)
E-2-2 「われわれ自身の絶対的未来」として、「匿名的な『原初的差異』の『超越論的媒体機能』」として「接する」(Fulung:フッサール)他者とは、その他者を前にした我々に新鮮な風を吹き込む「通風孔」だ。(78頁)
E-2-3 我々は「分裂病者」を前にしてはじめてそこに「通風孔」という特別な他者との接触性、つまり「《第2の二重性》が与えられる《第3の道》」があったことを知るが、気づかれた瞬間にはそれは「塞がれて」しまっている。(78頁)
E-2-4 分裂病者は、「塞がれた通風孔」だ。つまり「分裂病者」は「事物様対象」として、われわれに与えられる。(77-78頁)
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