DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

原民喜(1905ー1951)「昼すぎ」『ある時刻』(1946)所収:死のだるさ、死の予感の詩だ!詩人はものうく死(夕方)の気配のうちにある!

2019-08-23 22:38:31 | 日記
 「昼すぎ」 In the afternoon

朝はたのしそうに囀(サエズ)つていた小鳥が In the morning, small birds sing merrily.
昼すぎになると少し疲れ気味になつている。 However, they become to look tired a little in the afternoon.
昼すぎになると、夕方のけはひがする。 In the afternoon, you feel that evening comes.
ものうい心に熱のくるめき。 In your sluggish heart, heat makes you dizzy.

《感想1》小鳥は詩人自身だ。彼は昼すぎになると少し疲れ気味だ。昼過ぎは死(夕方)の気配だ。心はものうい。彼はこの時期原子爆弾被災以後、食糧難もありひどく体調不良だった。熱でめまいが起きる。
《感想2》死のだるさ、死の予感の詩だ。詩人は疲れ気味でものうく死(夕方)の気配のうちにある。
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モーパッサン(1850ー1893)『シモンのパパ』(1879):シモンは「新しいパパ」が好きだ!「新しいパパ」が「ママの亭主」になれば、「すっかりパパになる」!

2019-08-23 20:22:35 | 日記
(1)
ある日の朝、ブランショットの息子シモンが、初めて学校へ来た。シモンには父親がいなかった。ブランショット(母親)は、結婚を約束した男との間にシモンを産んだが、男は二人を捨てた。村の母親たちは、いくぶん軽蔑の入り混じった同情をこめて、彼女を話題にした。シモンは表に出ることが滅多になく、村の子供たちは彼をよく知らなかった。
(2)
昼休み、何人かの生徒たちが、校門の外でシモンを待ち受けた。年長の14、5歳くらいの少年がわけ知り顔で言った。「知ってるかい・・・・シモンね・・・・あいつにはパパがいないんだぜ。」やがてシモンが現れた。彼は7、8歳位だった。シモンは気が弱く、不器用そうだった。子供たちが、ずるい意地悪気な目つきをして、シモンを取り囲んだ。
(3)
子供たちはシモンを問いただし、「パパのいない子供」だと明らかにした。さげすみの気持ちが子供たちの心に拡がった。彼らは「父(テテ)なし子、父なし子」とシモンをはやし立てた。シモンと子供たちの一人が殴り合いになった。二人は引き離されたが、シモンはしゃくりあげ、すすり泣き始めた。子供たちは残忍で嬉し気に、「父なし子、父なし子」とシモンの周りで輪を作って踊った。
(4)
シモンはついに泣き止み、足元の小石を拾い、いじめっ子たちに全力で投げつけた。2、3人に当たるとその子たちは大声を上げ逃げた。シモンの形相があまりにすごかったので、他の子供たちも怖ろしくなり逃げた。一人となったシモンは、川で溺れ死のうと決心した。
(5)
川のほとりまで来て、シモンは「ぼくにはパパがいないから溺れ死ぬのだ」と思った。とても暖かくいい陽気だった。彼はうっとりした気分になり、草の上で眠り込みそうだった。彼は自分の家や、母親のことを思い出し、無性に悲しくなり、また泣き出した。彼は、ただひたすら泣いた。
(6)
突然、重い手がシモンの肩にのせられ、太い声が「坊や、なんでそんなに泣いてるんだい」と訊ねた。背の高い職人風の男が、優しげに彼を見ていた。「みんながぼくをぶったんだよ・・・・ぼくには・・・・ぼくにはパパが・・・・いないから。」その言葉を聞くと、職人は真面目な顔つきになり、子供がブランショットの息子だと分かった。
(7)
職人はこの土地に来てまだ間がなかったが、ブランショットの話は聞いていた。「さあ坊や、元気をお出し、一緒にママのところへ帰ろう。パパなんて・・・・そのうちに見つかるさ」と職人が言った。ブランショットはこのあたりで一番の美人と言われていた。「一度過ちをおかした女なら、もう一度過ちをおかすこともあるだろう」と男は考えていたかもしれない。
(8)
シモンの家に着いた。「ここだよ」と子供は言って、大声で「ママ」と呼んだ。若い女が厳しい顔つきで戸口のところに現れた。ふざけた真似などできないと、男はすぐに分かった。シモンが言った。「ぼくは溺れて死んでしまおうと思ったんだ。ぼくにはパパがいないと言って・・・・みんながぼくをぶったから。」女は両頬を真っ赤に染め、ひどく傷つけられた気がして、シモンに激しく接吻した。涙があふれ、頬を伝って流れた。
(9)
シモンが不意に男の方に駆け寄り、「ぼくのパパになってくれない?」と言った。一瞬しんとなった。ブランショットはいたたまれないほど恥ずかしく、黙っていた。「パパになってくれないんなら、ぼくはまた川に戻って溺れちゃうよ。」男が「いいともパパになってあげるよ」と言った。男の名前を聞き、シモンは「じゃあ、フィリップはぼくのパパだね」と言った。
(10)
翌日、シモンが登校すると、意地の悪い嘲笑が待ち受けていた。シモンは「ぼくのパパはフィリップっていうんだ」と言い放った。子供たちが「どこで拾って来たんだい、そのフィリップっていうやつを」などと言った。フィリップは授業が終わり、また子供たちに取り巻かれたが「自分のパパはフィリップだ」という信念があったので逃げ出さなかった。先生が来て助け出してくれた。
(11)
三か月の間、職人のフィリップは、ちょくちょくブランショットの家のそばを通った。そして時には、ブランショットに話しかけることもあった。しかし彼女は、真面目な態度を崩さず、笑い顔も見せず、相手を家の中に招じ入れることもなかった。しかし、村人たちは噂を立て始めた。
(12)
シモンは、この新しいパパが大好きだった。一日が終わると、ほとんど毎夕、一緒に散歩した。シモンは毎日、学校に行った。ある日、子供の一人が言った。「君にフィリップなんていうパパはいないよ。パパなら、その人は君のママの亭主のはずだからな」。シモンが「でもぼくのパパだ」と言った。あざけるように相手が言った。「でもすっかりパパっていうわけじゃないだろうよ。」
(13)
ブランショットの子はうなだれ、物思いにふけり鍛冶屋に向かった。フィリップはその鍛冶屋の職人だった。シモンが言った。「『フィリップはすっかりぼくのパパになったわけじゃない』って、さっき言われたんだ。『おじさんはママの亭主じゃないから』だって。」5人の職人たちは、その話を聞いて誰も笑わなかった。
(14)
フィリップは、立てかけたハンマーの上に両手を組み、その甲に額を載せ考えにふけった。4人の職人仲間が様子を眺めていた。やがて一人の職人が、みんなの考えを代弁し言った。「ブランショットは、立派な女だよ、不幸な目にあったが、しっかり者で、真面目な女だ。ちゃんとした男の、立派な女房になれる女だと思うね。」「一人で子供を育てるについちゃあ、ずいぶん苦労したろうな。」
(15)
フィリップが、シモンに言った。「『今晩、話をしに行くから』とママに伝えておくれ。」仕事が終わりその晩、フィリップはブランショットの家を訪ねた。彼はひげを剃り、真新しいシャツの上に一張羅の上着を着こんでいた。女が言った。「人の噂になりたくないわたしの気持ちは、わかっていただけますわね」。フィリップが言った。「そんなこと、構わないじゃありませんか。私の女房になってくださればいいんだから。」
(16)
その翌日、学校で、シモンがすっくと立ちあがって言った。「ぼくのパパは鍛冶屋のフィリップ・レミーだ。ぼくを苛めるやつは、容赦しないってパパが言ったよ。」今度は誰も笑おうとしなかった。鍛冶屋のフィリップ・レミーは、みんな知っていたし、誰だって自慢したくなるようなパパだったからだ。

《感想1》小さな村で生きて行くのは大変だ。道徳的非難、噂と陰口のターゲットになったら怖ろしい。
《感想2》「子は親の鏡」だ。親の見方を、子供たちが引き継ぐ。彼らは残酷にターゲットを攻撃する。
《感想3》子供たちは楽しみを求める。「悪人」を苛めるのは見世物的な楽しみだ。大人も同じだ。「悪人」と定義すれば、どんな残酷な仕打ちもする。
《感想4》一度限りなら、弱者が強者に勝つこともある。「窮鼠(キュウソ)猫を噛む」!(追い詰められたネズミが猫を噛む。)しかし、いじめの日常は終わらない。弱者が反抗すれば、以後、さらにひどい報復がずっとなされる。
《感想5》シモンは「川で溺れ死のう」と思ったが、その日は、とても暖かくいい陽気で、彼の気分は、死の決意と異なる方向に進む。ただ彼はひたすら悲しかった。
《感想6》「シモンにパパがいない」、「ブランショットは過ちをおかした女」との道徳的非難、噂と陰口が村の共有された知識だ。「人の口に戸は立てられない」!
《感想7》男は、誰でも女を狙う。「鼻の下を伸ばす」程度なら平和だ。パワハラにもとづくセクハラがある。風俗産業が反映する。戦争では性的暴行が行われる。
《感想8》ブランショット(母親)に本来、責任はない。彼女は、結婚を約束した男との間にシモンを産んだが、男が二人を捨てた。責任は男にある。だが女が、「私生児を産んだふしだらな女」と道徳非難を受ける。
《感想9》男が「パパになってあげるよ」とシモンに言った理由は何か?①シモンの母親に未練があったので、母親に会う口実として、「パパ」になることを約束した。また②いじめられるシモンへの同情の気持ちがあった。
《感想10》反抗したターゲット(シモン)に対し、いじめる側の報復は執拗だ。だがシモンの自信は、大したものだ。「断じて行えば鬼神もこれを避く」。信念にもとづく自信があれば、鬼神(神々)でさえ手を出さない。
《感想11》職人のフィリップ(男)の行動は両価的だ。半分本気だが、半分浮気だ。ブランショット(女)の対応は当然だ。近寄ってくる男には下心・浮気心がある。本気の男などいない。まして村人たちの噂は怖ろしい。
《感想12》一般に再婚がうまくいく条件の一つは、相手の連れ子とうまくいくかどうかだ。シモンは「新しいパパ」が好きだ。そして「新しいパパ」が「ママの亭主」になれば、「すっかりパパになる」。
《感想13》フィリップとブランショットの関係は、すでに村の噂だ。鍛冶屋の職人たちはみな、事情を知っている。
《感想14》フィリップは、職人仲間の信頼を得ている。だから彼らは、フィリップの味方だ。そしてフィリップがブランショットを愛することも了解している。彼らは、ブランショットに同情的だ。
《感想15》フィリップは初婚の男。ブランショットは私生児を持つ女。二人の結婚は、特にフィリップにとって大変だ。結婚後も、ブランショットの「過ち」がずっとついて回る。小さな村だ。そのリスクをフィリップが「引き受ける」と決めた。彼は、シモンとブランショットを深く愛している。
《感想16》鍛冶屋のフィリップ・レミーは、仕事ができ屈強な働き者で、村でも一目置かれた鍛冶職人だ。ブランショットは、彼と結婚し、彼に守られ、「過ち」の噂の悪意・侮蔑から相当に解放される。
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不安の「対象」はまったく無規定である!世界はまったくの無意義という性格を帯びる!不安が臨んでいるのは世界そのものである!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「第40節」(その1)

2019-08-23 12:00:34 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第40節 現存在の際立った開示態としての不安という根本的心境(情状性)」(その1)

(1)現存在は不安のなかで、おのれ自身の前へ連れだされる!
A 「われわれは・・・・存在者としての現存在自身についての存在的な『啓発』(Aufshluss)を得ようとしている。」(184頁)
A-2 「不安は際立った心境である」。「現存在は不安のなかで、おのれ自身の存在によっておのれ自身の前へ連れだされる」。(184頁)

(1)-2 「頽落」は「本来的な自己」から逃れる現存在の「逃亡」だ!「頽落的背離」!
B 「われわれは、現存在の構造全体の全体性の存在へ迫ろうとする。」(184頁)
B-2 「頽落の具体的な分析から出発する。」(184頁)
B-3 「世間(世人)(Man)と配慮される『世界』とに融けこんでいるありさま(※これが頽落だ!)は、本来的な自己としてあることの存在可能としての自己自身から逃れる現存在の逃亡(Flucht)」である。(184頁)
B-4 「現存在がおのれ自身とおのれの本来性とから逃亡する」。(184頁)
B-5 この「逃亡」、つまり「背離」(現存在からの「離脱」)、要するに「頽落的背離」においても、そのもの(※現存在)は「開示されてそこに(『現に』)ある」。(184-5頁)
B-6 「現存在が世間(世人)と配慮される『世界』へと頽落することを、われわれは現存在自身からの『逃亡』となづける」。(185頁)

《感想1》第38節でハイデガーが言う。「世間話と公開的な既成的解意とにおいて、世間(Man)のなかでわれを忘れて根なしの状態に頽落する可能性を現存在に提供するものは現存在自身だ」。つまり現存在(世界内存在)は、「おのずからにして誘惑的だ」。(177頁)(Cf.「公開性」とは自明として受け取られることである。第27節参照。)

(2)「怖ろしい」とは「内世界的存在者」にたじろぐことだ!「不安」とは「現存在自身」にたじろぐことだ!(そして「不安」が「怖れ」を生む!)
C 「逃亡」は怖れにもとづく。この場合、「怖ろしい」のは特定の「内世界的存在者」(「怖ろしいもの」)だ。(185頁)
C-2 これに対して「頽落の背離」が、「それに臨んでたじろぐもの」は「現存在自身」だ。(185頁)
C-3 「内世界的存在者」にたじろぐことは「怖ろしい」と呼ばれる。(185頁)これに対し「現存在自身」にたじろぐことが「不安」と呼ばれる。「この不安が怖れをもはじめて可能にする。」(186頁)

(2)-2 不安の「対象」はまったく無規定である!世界はまったくの無意義という性格を帯びる!
D 「現存在がおのれ自身から頽落的に逃亡する」(186頁)
D-2 「不安がそれに臨んで不安を覚えるところのものは、世界内存在そのものである。」(186頁)
D-3 「不安の『対象』はまったく無規定である。」(186頁)
D-4  「不安」は。特定の「内世界的存在者」に対する「特定の有害性」に対する「怖れ」と異なる。(186頁)
D-5 この時、「内世界的に発見された趣向(適所)全体性は・・・・崩壊する。世界はまったくの無意義という性格を帯びる。」(186頁)
D-6 かくて「あぶないものがどこそこから近づいてくるというような、特定の《ここ》や《あそこ》は、不安の眼にははいらない。おびやかすものが《どこにもない》。」(186頁)

(2)-3 不安が臨んでいるものは世界そのものである!
E 「不安が臨んでいるところのもののうちに、『それは無であり、どこにもない』ということがあらわになる。」(186頁)
E-2 「内世界的にみれば無であり無処であるものが、不安のなかで・・・・居坐っていることは、・・・・《不安が臨んでいるものは世界そのものである》ことを告げる」。(186-7頁)
E-3 「無と無処」において打ち明けられている「無意義」さ!(187頁)
E-4 「用具性の見地からみて無であるものは、もっとも根源的な『あるもの』(Etwas)、すなわち世界にもとづいている」。(187頁)
E-5  「不安が臨むところが、無として、すなわち世界そのものとして明らかになる」ことは、「不安がそれに臨んで不安を覚えているものは、世界内存在そのものである」ことを意味する。(187頁)
E-6 「不安こそ、心境の様態として、はじめて世界としての世界を開示するものなのである。」(187頁)

《感想2》「既成的解意」とは、社会的に所与の類型のもとへの包摂、つまり類型化のことだ。しかしすべての意味(ノエマ)は、《類型(イデア)のもとへ、体験、経験、意識における所与を、包摂する》その類型(イデア)のことだ。類型にとらえられない自己自身の本来性(体験そのもの、経験そのもの、意識における所与そのもの)は、そもそも把握(意味、類型化)されない。現存在の本来性は、既成的解意or類型or言葉の外にある。それは、とらえがたいもの、とらえたときは逃げてしまうものだ。現存在の本来性は、語ることができない。
《感想2-2》現存在の本来性を、語ることができるとすれば、「既成的解意」をもたらす類型と異なる、類型or言葉を探し、とらえがたいもの、とらえたときは逃げてしまう現存在の本来性(体験そのもの、経験そのもの、意識における所与そのもの)に接近することだ。ハイデガーは、その作業を行っている。
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