※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第39節 現存在の構造全体の根源的全体性への問い」(その2)
(5)「存在問題」へ視線を向け「実在性(Realitat)の概念」を一層鮮明に規定する!(「第43節 現存在、世界性および実在性」)
G 「実存論的=先験的人間学という特殊問題の範囲(※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」!)を越えて、あらためて存在問題の方へ視線を向ける。」(183頁)
G-2 「現存在でない性格を持つ内世界的存在者を規定している存在様式」すなわち「用具性と客体性」について立ち入ってとらえる。(183頁)
G-3 「従来、存在論的問題設定は、存在ということを・・・・客体性(「実在性」、「世界」=現実性)という意味で了解してきた」。「他方、現存在の存在の方は、存在論的に規定されずにいた。」(183頁)
G-4 かくて、①ここで「関心、世界性、用具性ならびに客体性(実在性)の間の存在論的連関」について論究する。(183頁)
G-5 この論究によって、さらに、「実在性の理念」をめぐって行われている「実在論と観念論の認識論的問題設定」を検討しながら、「実在性(Realitat)の概念」を一層鮮明に規定する。(183頁)
《感想5》ハイデガーは「現存在でない性格を持つ内世界的存在者」と言う。現存在はモナドだから、一切の内世界的存在者はモナド内の意味(ノエマ)である。客体性(実在性)はノエマの存在性格(存在定立と中和性変様)の一つ(存在定立)である。
(6)現存在において、存在がまったく了解されずにいることは、決してない!(「第44節 現存在、開示態および真理性」)
H 「存在者は、《それを開示し、発見し、規定する経験や知識や把握》からは独立に存在している。」(183頁)
H-2 「けれども存在(※無でなく有であること)は、存在了解(※ノエシスとノエマの分裂的統一としての意識)というようなものをおのれの存在(※有)にそなえている存在者(※モナド、現存在)の了解のなかにのみ『ある』のである。」(183頁)
H-3 「したがって、存在は理論的に把握されずにいることはあるが、まったく了解されずにいることは、決してない。」(183頁)
《感想6》モナド内の意味(ノエマ)は、ヒュレー(質料)から構成されたノエマだ。ヒュレー(質料)もモナド内にある。いわゆる《外的世界》と呼ばれる物体(物的世界)についてもそのヒュレーはモナド内にある。モナドのうちに、物体そのもの(物的世界そのもの、《外的世界》)が出現する。
(6)-2 存在と真理の問題!(「第44節(続)」)
I 「存在論的問題圏内では、昔から存在と真理(Sein und Wahrheit)が、同一視されないまでも、いつも取り合わせて考えられてきた。」(183頁)
I-2 「このことのうちに、存在と了解との必然的な連関が・・・・証跡をのこしている。」(183頁)
《感想6-2》日常生活でも、事実(存在)こそが、本当のこと(真理)だと言われる。事実でない想像・虚構(作り話)は、本当のことでない(虚偽)と言われる。
(6)-3 真理の現象を存在論的に解明する必要がある!(「第44節(続々)」)
J 「存在問題にゆきとどいた準備をするためには、真理の現象を存在論的に解明する必要がある。」(183頁)
J-2 この解明は、「開示態と発見態、解意と言明」と言う諸現象の解釈によって得た成果を地盤にして、行われる。(183頁)
《感想6-3》ハイデガーは「開示態」について、次のように述べている。
・「この存在者(※現存在)は、そのもっとも固有な存在において、閉ざされていない。」「《そこ》(『現』、Da)という表現は、この本質的な開示態を指そうとするものである。」「この開示性によって、この存在者(現存在)は、世界の現存とともに、おのれ自身にむかって《そこ》に存在している。(※かくて了解が可能となる!)」(132頁)
・「現存在はおのれの開示態(Erschlossenheit)を存在する。」比喩的に言えば「人間(※現存在)は内に『照明』を含んでいる」「人間(※現存在)は・・・・・・みずからその明るみ(Lichtung)を存在する。」(133頁)
・上記(132-133頁)についての私見:無でなく有である(存在者が存在する)こと(※恐るべき謎だ!)を、「閉ざされていない」こと、「開示態を存在する」こと、「明るみを存在する」ことと、ハイデガーは表現する。「了解」以前に、何ものかが「開示」されているという出来事こそが有(存在者の存在)なのだ。
・視(Sicht)は、「現存在の明るみ(Lichtung)」とよぶべき内存在の開示態(※自己意識)のなかで初めて可能になる。(170頁)
・ 「①世間話(空談)(das Gerede)、②好奇心(die Neugier)、③曖昧さ(die Zweideutigkeit)は、現存在(※自分のこと!)が日常的におのれの『現』を――世界内存在の開示態を――存在しているありさまの性格である。」(38節175頁)
・「現存在の開示態の存在は、心境(情状性)、了解(※意識性)および話において構成される。」(180頁)Cf.「話(Rede)は、心境(Befindlichkeit)および了解(Verstehen)と、実存論的には同根源的である。」(161頁)
《感想6-3-2》ハイデガーは「発見態」について、次のように述べている。
・「現存在は世界内存在であるから、いつでもすでにひとつの『世界』を発見している。」この発見は「存在者をある趣向(適所)全体性へ向けて明け渡す」こととして性格づけられる。(110頁)
・「存在論的には、世界の第一義的な発見を、原理的に『たんなる気分(※心境=情状性)』にゆだねなくてはならない」。(138頁)
・「言明的な挙示は、《了解のなかですでに開示され、あるいは配視的に発見されていたものごと》をもとにしておこなわれる。」(156頁)
・「客体的なものごとの発見は用具的現前性を蔽いかくす。」(158頁)
(7)「第1編 現存在の準備的な基礎分析」の結び!すなわち「第6章 現存在の存在としての関心」(第39-44節)!
K こうして今、第39節で述べたように「第1編 現存在の準備的な基礎分析」の結びは、次のことを主題にする。
一、「第40節 現存在の際立った開示態としての不安という根本的心境(情状性)」
二、「第41節 関心(気遣い)としての現存在の存在」
三、「第42節 《関心としての現存在》の実存論的解釈を、現存在の《前存在論的な自己解意》によって検証する」
四、「第43節 現存在、世界性および実在性」
五、「第44節 現存在、開示態および真理性」
(5)「存在問題」へ視線を向け「実在性(Realitat)の概念」を一層鮮明に規定する!(「第43節 現存在、世界性および実在性」)
G 「実存論的=先験的人間学という特殊問題の範囲(※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」!)を越えて、あらためて存在問題の方へ視線を向ける。」(183頁)
G-2 「現存在でない性格を持つ内世界的存在者を規定している存在様式」すなわち「用具性と客体性」について立ち入ってとらえる。(183頁)
G-3 「従来、存在論的問題設定は、存在ということを・・・・客体性(「実在性」、「世界」=現実性)という意味で了解してきた」。「他方、現存在の存在の方は、存在論的に規定されずにいた。」(183頁)
G-4 かくて、①ここで「関心、世界性、用具性ならびに客体性(実在性)の間の存在論的連関」について論究する。(183頁)
G-5 この論究によって、さらに、「実在性の理念」をめぐって行われている「実在論と観念論の認識論的問題設定」を検討しながら、「実在性(Realitat)の概念」を一層鮮明に規定する。(183頁)
《感想5》ハイデガーは「現存在でない性格を持つ内世界的存在者」と言う。現存在はモナドだから、一切の内世界的存在者はモナド内の意味(ノエマ)である。客体性(実在性)はノエマの存在性格(存在定立と中和性変様)の一つ(存在定立)である。
(6)現存在において、存在がまったく了解されずにいることは、決してない!(「第44節 現存在、開示態および真理性」)
H 「存在者は、《それを開示し、発見し、規定する経験や知識や把握》からは独立に存在している。」(183頁)
H-2 「けれども存在(※無でなく有であること)は、存在了解(※ノエシスとノエマの分裂的統一としての意識)というようなものをおのれの存在(※有)にそなえている存在者(※モナド、現存在)の了解のなかにのみ『ある』のである。」(183頁)
H-3 「したがって、存在は理論的に把握されずにいることはあるが、まったく了解されずにいることは、決してない。」(183頁)
《感想6》モナド内の意味(ノエマ)は、ヒュレー(質料)から構成されたノエマだ。ヒュレー(質料)もモナド内にある。いわゆる《外的世界》と呼ばれる物体(物的世界)についてもそのヒュレーはモナド内にある。モナドのうちに、物体そのもの(物的世界そのもの、《外的世界》)が出現する。
(6)-2 存在と真理の問題!(「第44節(続)」)
I 「存在論的問題圏内では、昔から存在と真理(Sein und Wahrheit)が、同一視されないまでも、いつも取り合わせて考えられてきた。」(183頁)
I-2 「このことのうちに、存在と了解との必然的な連関が・・・・証跡をのこしている。」(183頁)
《感想6-2》日常生活でも、事実(存在)こそが、本当のこと(真理)だと言われる。事実でない想像・虚構(作り話)は、本当のことでない(虚偽)と言われる。
(6)-3 真理の現象を存在論的に解明する必要がある!(「第44節(続々)」)
J 「存在問題にゆきとどいた準備をするためには、真理の現象を存在論的に解明する必要がある。」(183頁)
J-2 この解明は、「開示態と発見態、解意と言明」と言う諸現象の解釈によって得た成果を地盤にして、行われる。(183頁)
《感想6-3》ハイデガーは「開示態」について、次のように述べている。
・「この存在者(※現存在)は、そのもっとも固有な存在において、閉ざされていない。」「《そこ》(『現』、Da)という表現は、この本質的な開示態を指そうとするものである。」「この開示性によって、この存在者(現存在)は、世界の現存とともに、おのれ自身にむかって《そこ》に存在している。(※かくて了解が可能となる!)」(132頁)
・「現存在はおのれの開示態(Erschlossenheit)を存在する。」比喩的に言えば「人間(※現存在)は内に『照明』を含んでいる」「人間(※現存在)は・・・・・・みずからその明るみ(Lichtung)を存在する。」(133頁)
・上記(132-133頁)についての私見:無でなく有である(存在者が存在する)こと(※恐るべき謎だ!)を、「閉ざされていない」こと、「開示態を存在する」こと、「明るみを存在する」ことと、ハイデガーは表現する。「了解」以前に、何ものかが「開示」されているという出来事こそが有(存在者の存在)なのだ。
・視(Sicht)は、「現存在の明るみ(Lichtung)」とよぶべき内存在の開示態(※自己意識)のなかで初めて可能になる。(170頁)
・ 「①世間話(空談)(das Gerede)、②好奇心(die Neugier)、③曖昧さ(die Zweideutigkeit)は、現存在(※自分のこと!)が日常的におのれの『現』を――世界内存在の開示態を――存在しているありさまの性格である。」(38節175頁)
・「現存在の開示態の存在は、心境(情状性)、了解(※意識性)および話において構成される。」(180頁)Cf.「話(Rede)は、心境(Befindlichkeit)および了解(Verstehen)と、実存論的には同根源的である。」(161頁)
《感想6-3-2》ハイデガーは「発見態」について、次のように述べている。
・「現存在は世界内存在であるから、いつでもすでにひとつの『世界』を発見している。」この発見は「存在者をある趣向(適所)全体性へ向けて明け渡す」こととして性格づけられる。(110頁)
・「存在論的には、世界の第一義的な発見を、原理的に『たんなる気分(※心境=情状性)』にゆだねなくてはならない」。(138頁)
・「言明的な挙示は、《了解のなかですでに開示され、あるいは配視的に発見されていたものごと》をもとにしておこなわれる。」(156頁)
・「客体的なものごとの発見は用具的現前性を蔽いかくす。」(158頁)
(7)「第1編 現存在の準備的な基礎分析」の結び!すなわち「第6章 現存在の存在としての関心」(第39-44節)!
K こうして今、第39節で述べたように「第1編 現存在の準備的な基礎分析」の結びは、次のことを主題にする。
一、「第40節 現存在の際立った開示態としての不安という根本的心境(情状性)」
二、「第41節 関心(気遣い)としての現存在の存在」
三、「第42節 《関心としての現存在》の実存論的解釈を、現存在の《前存在論的な自己解意》によって検証する」
四、「第43節 現存在、世界性および実在性」
五、「第44節 現存在、開示態および真理性」