DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

頽落する世界内存在は、誘惑的=鎮静的であるとともに、疎外的である!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「【B】」「第38節 頽落と被投性」(その2)

2019-08-12 22:12:15 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【B】現の日常的存在と現存在の頽落」「第38節 頽落と被投性」(das Verfallen und die Geworfenheit)(その2)

(6)頽落する世界内存在は、誘惑的=鎮静的であるとともに、疎外的である!
J 「鎮静は非本来的なもの(気休め)である」にもかかわらず、その「誘惑的な鎮静は、頽落をいやがうえにも亢進させる。」(177-178頁)
J-2 「現存在(※人間)解釈」について言うと、例えば「未知な文化圏の理解」、「これらの文化と自分の文化との『総合』」によって、「現存在」の「あますところなき、はじめて真正なる解明に達するであろうという見解」が台頭する。(178頁)
J-3 これはしかし「普遍的な現存在理解のそぶり」にすぎない。(178頁)これは「疎外」であり、「ひとごとならぬ自己の存在可能に気づかなくなる。」(178頁)(※これが「非本来性」=「非本来的な了解」だ!)
J-4 「頽落する世界内存在は、誘惑的=鎮静的であるとともに、疎外的である。」(178頁)

(6)-2 疎外は現存在に「本来性」を閉鎖し、「非本来性」に追い込む!おのれ自身への「惑溺」!
K 「疎外は、現存在を、過度の『自己分析』に腐心する存在様相へ駆り立てる。」Ex. 性格学、類型学。(178頁)
K-2 かくて「疎外は現存在に、自己の本来性と可能性とを・・・・《閉鎖する》」。そして「現存在をそれの非本来性に追い込む」。(178頁)
K-2 かくて「頽落の誘惑的=鎮静的な疎外(die versuchend-beruhigende Entfremdung des Verfallens)は・・・・現存在がおのれ自身へ《惑溺する》(verfängen)道へ通ずる」。(178頁)(※つまり「過度の『自己分析』」!)

《感想6》ハイデガーは「本来性」(「本来的な了解」)と「非本来性」(「非本来的な了解」)について次のように述べている。
《感想6-2》第9節でハイデガーは言う。「現存在は・・・・おのれの可能性を存在しているがゆえに、この存在者はその存在において①自己自身を『選びとり』、獲得し、あるいは②自己を失い、また③ただ「みかけだけ」自己を得ているだけで、いちども本当に得なかった、というようなこともありうる。」①が「本来的な了解」であり②③が「非本来的な了解」である。(※①②③は評者による。)
《感想6-3》第31節でハイデガーは言う。「了解(※意識)が主として世界の開示態に身を置き、すなわち現存在(※モナド)がさしあたってたいてい自分の《世界》の方から自己を了解するという可能性がある。」これは「非本来的な了解」である。「了解(※意識)が主としておのれの存在の主旨(目的)(Worum-willen)に身を投じ、すなわち現存在(※モナド)が自己自身として実存するという可能性がある。」これが「本来的な了解」である。(146頁)
《感想6-4》第38節でハイデガーは言う。「現存在の非本来性」とは、「『世界』と《世間(Man)におけるほかの人びととの共同現存在》とによってまったく気をうばわれている世界内存在」ということだ。(176頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『天気の子』新海誠監督(2019年):異世界と交流すると、この世での命を失う!

2019-08-12 12:36:47 | 日記
(1)
背景は天候の調和が狂っていく気候変動(地球温暖化)の時代。東京は雨続きだ。暴風雨・異常豪雨が続く。離島から家出し、東京にやって来た高校1年の帆高。だが東京で家出少年が働く場所はない。生活はすぐに困窮し、やっとあるオカルト雑誌会社に雇ってもらう。
(2)
ある日、帆高は、陽菜という少女に出会う。彼女は母に死なれ、小学生の弟と2人で自活して生きる。ところが陽菜には、「祈る」ことで空を晴れにできる巫女としての能力があった。かくて、インターネットで「天気を晴れにするサービス」を依頼者に売り、帆高と陽菜は収入を得ることができるようになった。陽菜は、天気が晴れて依頼者が喜ぶことも「祈る」理由としていた。
(3)
そんな中、天候は超暴風雨・超豪雨となり、東京が水没する可能性が生じた。陽菜は「祈る」ことで、天気を晴れにし、東京を救おうと決意する。だが巫女としての陽菜は「人柱」であり、能力の発動は、彼女の生命が徐々に奪われることだった。(「祈る」たびに陽菜の体は透明になっていく。)だが陽菜は、それを顧みず東京を救うために「祈る」。かくて彼女はついに彼岸(あの世としての天)に至る。
(4)
帆高は自分が陽菜を愛していることに気付く。彼は、陽菜を彼岸(天)まで追う。彼はビルの屋上から天に向かう。(※実は彼はおそらくビルから飛び降りた!)
(4)-2
ここからマジカルな世界へ移行する。帆高は、ついに陽菜がいる天=彼岸に着く。帆高が言う。「もう祈るのをやめろ!僕は、愛する君にこの世(此岸)で生きていてほしい。」陽菜は、帆高を受け入れ「祈る」ことをやめ、空を晴れにする巫女としての能力を捨てる。
(4)-3
二人は天=彼岸から、地上=此岸へ落下する。その後、東京は超暴風雨・超豪雨となる。それが数か月続き、ついに東京の半分が水没する。
(5)
陽菜は、行方不明となる。帆高は警察に補導され、島に帰され、高校卒業まで保護観察処分となる。
(6)
3年後、高校を卒業した帆高は、東京に再び出て、陽菜をさがす。そして二人は劇的に再会する。二人の愛が成就する。(帆高18歳、陽菜17歳)

《感想1》帆高16-18歳、陽菜15-17歳の愛(初恋)の物語だ。プラトニックな愛。東京の水没を救うことよりも、陽菜との愛の成就を願う帆高。『愛の賛歌』を思い出させる。「蒼空が崩れ落ち地が割れても、あなたに愛されていれば私は気にしない、世界のことなんか私は知らない・・・・」。
《感想2》帆高と陽菜はこれからどうなるのか?二人はまだ若い。一緒に暮らすことになるだろう。その後は、未知だ。(この映画の主題でない。)
《感想3》異世界と交流するとこの世での命が縮まる。(Cf. 牡丹灯籠でお露の亡霊と何夜も交わった新三郎は衰弱していき死ぬ。)彼岸=天の気に「祈る」ことで異界と交流する巫女、陽菜は体が少しずつ透明になり、やがてこの世での命を失う。
《感想4》空を海とみなす比喩は、両者がともに①青く、また②深いためだ。空の雨粒が魚になる。(Cf. 若山牧水が「空の青海のあを」と連想した。)
《感想5》この世(此岸)を超越する世界(彼岸)への憧れは、彼岸が《空想》か《実在》か証明できないために、人の心のうちで大きな位置を持ちうるからだ。(意味世界の展開としては、《空想》と《実在》は等価だ。)
《感想6》超暴風雨・超豪雨による東京の水没を、自然なこととして受け入れる態度は、人為・人工への批判である。(江戸時代には東京の半分が海だった。Ex. 浅草のり。Ex. 鮫洲は海だった。)自然志向!
《感想7》一方で、この世(此岸)の辛い生活、悪意と傲慢と弱肉強食、他方で、彼岸(天)の超越性・救済性が対比される。
《感想7-2》彼岸での救済の理念は、日本では極楽浄土の教えに典型的だ。(Ex. 平等院鳳凰堂)また鎌倉時代の浄土宗・浄土真宗など。
《感想7-3》 戦国時代、キリシタンの来世救済の教えもあった。
《感想7-4》中世には,補陀落(フダラク)渡海があった。南方の補陀落浄土をめざし行者が渡海船に乗り込む。伴走船が沖まで曳航し綱を切って見送った。(船室は行者が中へ入ると板などで塞がれた。)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする