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現存在は、おのれを「関心(気遣い)(Sorge)」としてあらわにする!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「第39節 現存在の構造全体の根源的全体性への問い」(その1)

2019-08-17 20:40:07 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第39節 現存在の構造全体の根源的全体性への問い」(その1)

(1)現存在の日常性の構造全体を、はたしてその全体性においてとらえることができるであろうか?
A これまでの「現存在の準備的基礎分析」をもとに、これらの「構造全体の全体性」がどのように規定さるべきかを、問う。(180-1頁)
B 「世界内存在は、ほかの人びととの共同存在と、用具的なもののもとでの従事的存在とを同根源的にそなえながら、そのつどおのれ自身を主旨(Worum-willen)として存在している。」(181頁)
B-2 「現存在の平均的日常性は・・・・頽落しつつ開示(※意識)され、被投的に(※現存在がおのれの現のなかへ投げられて)投企する世界内存在であって、『世界』のもとでの(従事的)存在とほかの人びととの共同存在とにおいて、ひとごとでない自己の存在可能そのものに関わらせられている。」(181頁)
C 「このような現存在の日常性の構造全体を、はたしてその全体性においてとらえることができるであろうか。」

《感想1》ハイデガーは18節で言う。「趣向(適所)全体性(※目的連関の全体)そのものは、突き詰めていくと、もはやいかなる趣向(適所性)をもたない《・・・・・・のため》(※究極の理由動機)へ帰着する。」この「第一義的な《・・・・・・のため》」は「なんらかの趣向(適所性)をそなえている用途(※目的)」ではない。それは《・・・・・・を主旨とする》というその主旨(※理由)である。」そしてこの「主旨」(※究極の理由動機)は、「現存在の存在(Cf. 用具的存在者or内世界的存在者)についてのみ言われうる。」

(2)「不安(Angust)」という「心境(情状性)」を現存在の日常性の構造全体を、その全体性においてとらえるにあたって基礎とする!(「第40節 現存在の際立った開示態としての不安という根本的心境(情状性)」)
D 「存在の構造全体性がその基本的な姿で明るみに出て来る」ような「心境(情状性)」として、われわれの分析は「不安(Angust)の現象を基礎にする。」(182頁)とハイデガーは言う。
D-2 「不安は・・・・現存在の根源的な存在全体性を開示的にとらえるための現象的地盤を与える。」(182頁)

《感想2》A.Shutzは、ハイデガーにならって、究極の理由動機を、基礎的不安(fundamental anxiety)と呼ぶ。

(3)現存在は、おのれを「関心(気遣い)(Sorge)」としてあらわにする!(「第41節 関心(気遣い)としての現存在の存在」)
E 「こうして現存在は、おのれを関心(気遣い)(Sorge)としてあらわにする。」(182頁)
E-2  「関心」と同一視されやすい諸現象、「意志(Wille)、願望(Wunsch)、傾情(性癖)(Hang)、衝迫(衝動)(Drang)」と対照し、「関心」を画限する。(182頁)
E-3 これら諸現象は、「関心」のうちに基づけられている。(182頁)

《感想3》「第1部」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」の最後の章が、「第6章 現存在の存在としての気遣い(関心、die Sorge)」(第39-44節)である。

《感想3-2》すでに第12節で評者の私見として、次のように述べた。《意識》は、ノエマ(意味)を構成しつつあるノエシス(両者は不可分)だ。ノエシスは《関心》と《注視》からなる。ハイデガーは、《関心》を、「配慮」(Besorgen)・「待遇」(顧慮)(Fürsorge)、さらに一般的に「関心」(Sorge)として分析する。

《感想3-3》また第16節で、評者の私見として、次のように述べた。「了解」とは、日常用語における《意識》に相当する。《意識》とは、モナド(超越論的主観性)において、常にノエシスとノエマの分裂が起きつつ、同時にノエシスはノエマを構成するということだ。(なおノエシスは、《関心》と《注視》からなる。)

《感想3-4》第12節で、ハイデガーは次のように述べる。「現存在(Dasein)とは、みずから存在しつつこの存在にむかって了解的に態度をとっている存在者(Seiendes)である。」これが「実存」の「形式的な概念」だ。つまり現存在のあり方が「実存」(Existenz)とよばれる。

《感想3-5》これに関して、評者の私見として、次のように述べた。(ア)「了解的」に態度をとる存在者とは、《意識》のことだ。「現存在」は《意識》だ。(イ)《意識》は、ノエマを構成しつつあるノエシス(ただし両者は不可分)だ。(イ)-2 ノエシスは《関心》と《注視》からなる。ハイデガーは《関心》を、「配慮」(Besorgen)・「待遇」・「関心」(Sorge)として分析する。(ウ)A.シュッツは《関心》を、理由動機と目的動機に区分し、前者が後者を生み出すとした。より根源的な理由動機が、死への根本的不安(fundamental anxiety)だ。

(4)「現存在を《関心》と解する存在論的解釈」について、「前存在論的な検証」が必要だ!(「第42節 《関心としての現存在》の実存論的解釈を、現存在の《前存在論的な自己解意》によって検証する」)
F 「現存在を《関心》と解する存在論的解釈」について、「前存在論的な検証」が必要だ。(183頁)
F-2 「現存在はすでに早くから、自己自身について発言するやいなや、自己を――ただ前存在論的にではあるが――《関心》(cura)として解意していた」ということを指摘する。(183頁)

《感想4》「関心」とは「心境(情状性)」の一種,つまり「気分」の一種だ。この「関心」という気分が(行為の)理由動機となり、「意図」「目的」といった(行為の)目的動機が定立される。
《感想4-2》ハイデガーは第29節で言う。存在論的に「心境(情状性)(Befindlichkeit)」と呼ぶものは、存在的には、「気分(Stimmung)、気持ち(Gestimmtsein)」のことだ。「現存在に、いつもすでに気分がある」。「現存在がそこで現としてのおのれの存在に直面させられる」ところの「気分の根源的な開示力」!(これにくらべれば、「認識にそなわる開示力」の射程ははるかに及ばない。(134頁)
《感想4-2-2》私見を述べれば、いわゆる《意識》とは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》だ。その最も基礎的な様式は、一方で、ただ漠然とした《ある》というノエマが構成され、他方で「気分」=「心境」と呼ぶノエシスが(そのノエマを構成しつつ)受動的に(能動的にでなく)注視し、かつ両者は分裂的な統一の内にあるという出来事だ。
《感想4-2-3》ハイデガーは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》のこの最も基礎的な様式について、「気持ち(※気分、心境)のなかで現存在(※そこにあることorそこ、Da)はいつもすでに気分(※気持ち、心境)的に開示されている」(第29節134頁)と表現する。
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映画『バーレスク』(『牛が飛ぶとき』)(2019年):「絶対あり得ないこと、不可能なこと」が起きる奇跡!牛が飛んだ!

2019-08-17 12:59:25 | 日記
※監督(女性)Tereza Kopáčová、主演Eva Hacurová(エヴァ・ハクロヴァ、小学校の女性教師), Sabina Remundová(サビナ・レムンドヴァ、母親=校長)。アマゾン・プライム・ビデオ。チェコのTVドラマ。その題の英語訳は『牛が飛ぶとき(When cows fly)』である。
(1)
バーレスク(burlesk)は猥雑な劇と女性のストリップを含むショー。「牛(or豚)が飛ぶとき」とは「絶対あり得ないこと、不可能なこと」という意味だ。その"あり得ないこと"を起こすのが、肥満体型の主人公・ベティー。彼女は母親が校長を務める小学校の教師であるが、自分の体型にコンプレックスを抱きつつバーレスクのダンス動画を見ながら日々を送る。
(2)
ある日、ベティーは、バーレスクのダンスを習う友人がいたことから、ダンスレッスンに加わることなった。ベティーは少しずつ自信をつけていく。しかし①保守的な母(ベティーが勤める学校の校長でもある、体型はベティーと同様)、②体型に障害がある問題生徒スティーブン(胸の奇形を隠すためいつもキルトのベストを着ている)、③その父親(町の教育界の有力者でベティーの解雇を強要する)、さらに④SNS(バーレスクを踊る女性小学校教師べティーの画像が流される)が、自信を持ちたいと頑張るベティーの壁となる。
(3)
しかし ベティーは徐々に自己肯定の力を手に入れていく。肥満へのあざけりから自信のない自分、そして母の「太った人間には幸せをつかむ権利なんてないに等しい」という呪縛を、ついに振り切る。ベティーは、自信をもってスポットライトの中でバーレスクを踊る。
(4)
コンプレックスをはねのけたべティー。エンドソングは、シンディー・ローパーの「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」 (Cyndi Lauper, Girls Just Want To Have Fun, 2008) 。女の子は楽しまないとね! 肥満がコンプレックスの女性が「本当の自分」を見つけ出す物語。
(5)
生徒のスティーブンは体に奇形があり神経質で暴力的な問題児だ。「自分を隠してはダメだ、勇気を出してあるがままの自分をさらし自信を持ちなさい」とベティーが説得する。その時、「太っている私も勇気をもってバーレスクを踊り、裸をみんなに見せている」とスマホの映像を見せる。するとベティーが少し席を外した時、彼がその映像をSNSで流出させる。べティーはその映像を生徒たちを含め町中(世界中)に見られる。
(6)
ベティーは、優しく思いやりのある教師だが、SNSが原因で小学校教師を解雇される。ベティーは、母親からも「こんな小さな町で私は校長として恥ずかしくて居場所がない」と言われる。
(7)
ベティーはバーレスクのショーでテレビ番組に出演することになるが、その時、司会者から挑発的で意地の悪い質問を受ける。しかし彼女は、自信をもって真摯に自分の気持ちを述べる。番組を見ていたスティーブンは、彼女の気持ちを理解する。彼女はテレビで、バーレスクを見事に踊り切る。映画の最後の場面で、ベティーにメールが届く。「牛が飛んだ!スティーブン!」ベティは、これを見てにっこり笑う。ひねくれスティーブンは、ベティー先生の気持ちがわかったのだ。

《感想1》肥満の女性が自分を解放する方法として、自分の裸を見せる(バーレスクを踊る)という設定が、現実にはあまりないだろう。(小学校教師出身のバーレスクのダンサーがいたのかもしれない。)しかし人間の価値が体型から決まらないは確かだ。人間の価値を決めるのは、(1)人間として正しく善であること、あるいは(2)生きて行くために、他者に役立つ技能・技術・資格、一般に「芸」を持っていることだ。
《感想1-2》肥満の原因は、遺伝的要因もあるだろうが、多くは生活習慣的要因だ。ベティーは、生活習慣を変え、痩身となり肥満を治すという選択肢もあったはずだ。

《感想2》①母が保守的だと言っても、問題はベティーが自己解放の方法として、バーレスクを選んだことにある。だから母が彼女の壁になった。ベティーがバーレスクを選ばなければ、母はベティーの自己解放の壁にならないはずだ。母は、子供想いの立派な人だ。ベティーがバーレスクについて心底から母を説得すれば、母は娘を受け入れる。映画は実際最後、そうなる。
《感想2-2》②教師としてのベティーは、生徒スティーブンに何度も裏切られる。結局バーレスクを踊る映像をSNSに流され、ベティーは失職する。教師が生徒の信頼を得るまでの道は困難で長い。
《感想2-3》③生徒スティーブンの父親は、(ア)子供思いだが、(イ)町の教育界の有力者でベティーに圧力をかけることができる立場なので、彼女の話を聞く耳を持たず傲慢だ。(ウ)バーレスク(ストリップ)を恥ずべきことと見なす点は町の多数派だ。(この点はベティーの母も同じ。)
《感想2-4》④SNSによる人身攻撃(バーレスクを踊る小学校教師べティーの画像が流される)は、今では当たり前の手段なので本来、十分注意しなければならない。生徒スティーブンに対し教師べティーは油断した。生徒を信頼しても、同時に、十分警戒しなければならない。

《感想3》日本で肥満が問題になるのは、戦後の経済成長で食生活が豊かになってからの出来事だ。2018年のチェコも豊かな社会だ。
《感想3-2》社会が豊かでも、貧しくても、必ず蔑まれ差別される存在が、生み出される。「抑圧移譲」(自分が抑圧されるので他者を抑圧して自分のストレスを軽減する)である。他方で、蔑まれ差別される側は、他者からの嘲り・抑圧が内面化され、自分が自分自身を嘲り、抑圧する。ベティーも、肥満への嘲りから自信を失っていた。

《感想4》「Cyndi Lauper, Girls Just Want To Have Fun」の歌詞は次の通り。
(1)
I come home in the morning light 朝日の中、家に帰る
My mother says when you gonna live your life right ママが言う、そろそろ落ち着いた生活をしなさいって
Oh mother dear we're not the fortunate ones おーママ私たちみんながラッキーになれるわけじゃないわ
And girls they want to have fun だから女の子は楽しまないとね
Oh girls just want to have fun おー女の子はただ楽しみたいだけ
(2)
The phone rings in the middle of the night 夜中に電話が鳴る
My father yells what you gonna do with your life パパが怒鳴る、これからどうするつもりなんだって
Oh daddy dear you know you're still number one おーパパ、パパにかなう人なんていないわ
But girls they want to have fun でも女の子は楽しまないとね
Oh girls just want to have  おー女の子はただ楽しみたいだけ
(3)
That's all they really want 女の子が本当に望んでるのはそういうこと
Some fun 楽しみたいの
When the working day is done 仕事の一日が終わったら
Girls - they want to have fun 女の子は楽しまないとね
Oh girls just want to have  おー女の子はただ楽しみたいだけ
(4)
Some boys take a beautiful girl 綺麗な女の子を連れて
And hide her away from the rest of the world そして世界を彼女からかき消してしまう男の子もいる
I want to be the one to walk in the sun (でも)わたしはお日様の当たる場所を歩く者でいたい
Oh girls they want to have fun おー女の子は楽しまないとね
Oh girls just want to have  おー女の子はただ楽しみたいだけ
(5)
That's all they really want 女の子が本当に望んでるのはそういうこと
Some fun 楽しみたいの
When the working day is done 仕事の一日が終わったら
Girls - they want to have fun 女の子は楽しまないとね
Oh girls just want to have fun,  おー女の子はただ楽しみたいだけ
They want to have fun,  楽しまないとね
They just wanna. ただ楽しみたいだけ
Oh girls! おー女の子たち!

《感想5》教師ベティーは、生徒スティーブンを心配する。肥満に悩む自分の気持ちを、身体障害(胸の奇形)に悩むスティーブンに説明し、彼を勇気づけようとする。だがSNSを流出させスティーブンは、ベティーを裏切る。(あるいはスティーブンは、ベティーを試す。)
《感想6》母親も肥満体型で。娘ベティーが同じ体型を体質的に引き継いだことに責任を感じている。コンプレックスに悩む娘を、自分が校長を務める学校で採用する。教師としてベティーは小学1年生を担当し、生徒から信頼を得ている。バーレスク(ストリップ)を踊る娘を心配するのは母として当然だ。
《感想7》テレビ番組に出演したベティーは、司会者から挑発的で意地の悪い質問を受ける。しかし彼女は動じることなく、真摯に自分の気持ちを述べる。感動的だ。ひねくれた生徒スティーブンにも、ようやくベティー先生の気持ちがわかった。彼は「牛が飛んだ!スティーブン!」というメールをベティー先生に送る。それを見て彼女がにっこり笑う。「絶対あり得ないこと、不可能なこと」が起きた奇跡だ。

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