※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第39節 現存在の構造全体の根源的全体性への問い」(その1)
(1)現存在の日常性の構造全体を、はたしてその全体性においてとらえることができるであろうか?
A これまでの「現存在の準備的基礎分析」をもとに、これらの「構造全体の全体性」がどのように規定さるべきかを、問う。(180-1頁)
B 「世界内存在は、ほかの人びととの共同存在と、用具的なもののもとでの従事的存在とを同根源的にそなえながら、そのつどおのれ自身を主旨(Worum-willen)として存在している。」(181頁)
B-2 「現存在の平均的日常性は・・・・頽落しつつ開示(※意識)され、被投的に(※現存在がおのれの現のなかへ投げられて)投企する世界内存在であって、『世界』のもとでの(従事的)存在とほかの人びととの共同存在とにおいて、ひとごとでない自己の存在可能そのものに関わらせられている。」(181頁)
C 「このような現存在の日常性の構造全体を、はたしてその全体性においてとらえることができるであろうか。」
《感想1》ハイデガーは18節で言う。「趣向(適所)全体性(※目的連関の全体)そのものは、突き詰めていくと、もはやいかなる趣向(適所性)をもたない《・・・・・・のため》(※究極の理由動機)へ帰着する。」この「第一義的な《・・・・・・のため》」は「なんらかの趣向(適所性)をそなえている用途(※目的)」ではない。それは《・・・・・・を主旨とする》というその主旨(※理由)である。」そしてこの「主旨」(※究極の理由動機)は、「現存在の存在(Cf. 用具的存在者or内世界的存在者)についてのみ言われうる。」
(2)「不安(Angust)」という「心境(情状性)」を現存在の日常性の構造全体を、その全体性においてとらえるにあたって基礎とする!(「第40節 現存在の際立った開示態としての不安という根本的心境(情状性)」)
D 「存在の構造全体性がその基本的な姿で明るみに出て来る」ような「心境(情状性)」として、われわれの分析は「不安(Angust)の現象を基礎にする。」(182頁)とハイデガーは言う。
D-2 「不安は・・・・現存在の根源的な存在全体性を開示的にとらえるための現象的地盤を与える。」(182頁)
《感想2》A.Shutzは、ハイデガーにならって、究極の理由動機を、基礎的不安(fundamental anxiety)と呼ぶ。
(3)現存在は、おのれを「関心(気遣い)(Sorge)」としてあらわにする!(「第41節 関心(気遣い)としての現存在の存在」)
E 「こうして現存在は、おのれを関心(気遣い)(Sorge)としてあらわにする。」(182頁)
E-2 「関心」と同一視されやすい諸現象、「意志(Wille)、願望(Wunsch)、傾情(性癖)(Hang)、衝迫(衝動)(Drang)」と対照し、「関心」を画限する。(182頁)
E-3 これら諸現象は、「関心」のうちに基づけられている。(182頁)
《感想3》「第1部」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」の最後の章が、「第6章 現存在の存在としての気遣い(関心、die Sorge)」(第39-44節)である。
《感想3-2》すでに第12節で評者の私見として、次のように述べた。《意識》は、ノエマ(意味)を構成しつつあるノエシス(両者は不可分)だ。ノエシスは《関心》と《注視》からなる。ハイデガーは、《関心》を、「配慮」(Besorgen)・「待遇」(顧慮)(Fürsorge)、さらに一般的に「関心」(Sorge)として分析する。
《感想3-3》また第16節で、評者の私見として、次のように述べた。「了解」とは、日常用語における《意識》に相当する。《意識》とは、モナド(超越論的主観性)において、常にノエシスとノエマの分裂が起きつつ、同時にノエシスはノエマを構成するということだ。(なおノエシスは、《関心》と《注視》からなる。)
《感想3-4》第12節で、ハイデガーは次のように述べる。「現存在(Dasein)とは、みずから存在しつつこの存在にむかって了解的に態度をとっている存在者(Seiendes)である。」これが「実存」の「形式的な概念」だ。つまり現存在のあり方が「実存」(Existenz)とよばれる。
《感想3-5》これに関して、評者の私見として、次のように述べた。(ア)「了解的」に態度をとる存在者とは、《意識》のことだ。「現存在」は《意識》だ。(イ)《意識》は、ノエマを構成しつつあるノエシス(ただし両者は不可分)だ。(イ)-2 ノエシスは《関心》と《注視》からなる。ハイデガーは《関心》を、「配慮」(Besorgen)・「待遇」・「関心」(Sorge)として分析する。(ウ)A.シュッツは《関心》を、理由動機と目的動機に区分し、前者が後者を生み出すとした。より根源的な理由動機が、死への根本的不安(fundamental anxiety)だ。
(4)「現存在を《関心》と解する存在論的解釈」について、「前存在論的な検証」が必要だ!(「第42節 《関心としての現存在》の実存論的解釈を、現存在の《前存在論的な自己解意》によって検証する」)
F 「現存在を《関心》と解する存在論的解釈」について、「前存在論的な検証」が必要だ。(183頁)
F-2 「現存在はすでに早くから、自己自身について発言するやいなや、自己を――ただ前存在論的にではあるが――《関心》(cura)として解意していた」ということを指摘する。(183頁)
《感想4》「関心」とは「心境(情状性)」の一種,つまり「気分」の一種だ。この「関心」という気分が(行為の)理由動機となり、「意図」「目的」といった(行為の)目的動機が定立される。
《感想4-2》ハイデガーは第29節で言う。存在論的に「心境(情状性)(Befindlichkeit)」と呼ぶものは、存在的には、「気分(Stimmung)、気持ち(Gestimmtsein)」のことだ。「現存在に、いつもすでに気分がある」。「現存在がそこで現としてのおのれの存在に直面させられる」ところの「気分の根源的な開示力」!(これにくらべれば、「認識にそなわる開示力」の射程ははるかに及ばない。(134頁)
《感想4-2-2》私見を述べれば、いわゆる《意識》とは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》だ。その最も基礎的な様式は、一方で、ただ漠然とした《ある》というノエマが構成され、他方で「気分」=「心境」と呼ぶノエシスが(そのノエマを構成しつつ)受動的に(能動的にでなく)注視し、かつ両者は分裂的な統一の内にあるという出来事だ。
《感想4-2-3》ハイデガーは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》のこの最も基礎的な様式について、「気持ち(※気分、心境)のなかで現存在(※そこにあることorそこ、Da)はいつもすでに気分(※気持ち、心境)的に開示されている」(第29節134頁)と表現する。
(1)現存在の日常性の構造全体を、はたしてその全体性においてとらえることができるであろうか?
A これまでの「現存在の準備的基礎分析」をもとに、これらの「構造全体の全体性」がどのように規定さるべきかを、問う。(180-1頁)
B 「世界内存在は、ほかの人びととの共同存在と、用具的なもののもとでの従事的存在とを同根源的にそなえながら、そのつどおのれ自身を主旨(Worum-willen)として存在している。」(181頁)
B-2 「現存在の平均的日常性は・・・・頽落しつつ開示(※意識)され、被投的に(※現存在がおのれの現のなかへ投げられて)投企する世界内存在であって、『世界』のもとでの(従事的)存在とほかの人びととの共同存在とにおいて、ひとごとでない自己の存在可能そのものに関わらせられている。」(181頁)
C 「このような現存在の日常性の構造全体を、はたしてその全体性においてとらえることができるであろうか。」
《感想1》ハイデガーは18節で言う。「趣向(適所)全体性(※目的連関の全体)そのものは、突き詰めていくと、もはやいかなる趣向(適所性)をもたない《・・・・・・のため》(※究極の理由動機)へ帰着する。」この「第一義的な《・・・・・・のため》」は「なんらかの趣向(適所性)をそなえている用途(※目的)」ではない。それは《・・・・・・を主旨とする》というその主旨(※理由)である。」そしてこの「主旨」(※究極の理由動機)は、「現存在の存在(Cf. 用具的存在者or内世界的存在者)についてのみ言われうる。」
(2)「不安(Angust)」という「心境(情状性)」を現存在の日常性の構造全体を、その全体性においてとらえるにあたって基礎とする!(「第40節 現存在の際立った開示態としての不安という根本的心境(情状性)」)
D 「存在の構造全体性がその基本的な姿で明るみに出て来る」ような「心境(情状性)」として、われわれの分析は「不安(Angust)の現象を基礎にする。」(182頁)とハイデガーは言う。
D-2 「不安は・・・・現存在の根源的な存在全体性を開示的にとらえるための現象的地盤を与える。」(182頁)
《感想2》A.Shutzは、ハイデガーにならって、究極の理由動機を、基礎的不安(fundamental anxiety)と呼ぶ。
(3)現存在は、おのれを「関心(気遣い)(Sorge)」としてあらわにする!(「第41節 関心(気遣い)としての現存在の存在」)
E 「こうして現存在は、おのれを関心(気遣い)(Sorge)としてあらわにする。」(182頁)
E-2 「関心」と同一視されやすい諸現象、「意志(Wille)、願望(Wunsch)、傾情(性癖)(Hang)、衝迫(衝動)(Drang)」と対照し、「関心」を画限する。(182頁)
E-3 これら諸現象は、「関心」のうちに基づけられている。(182頁)
《感想3》「第1部」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」の最後の章が、「第6章 現存在の存在としての気遣い(関心、die Sorge)」(第39-44節)である。
《感想3-2》すでに第12節で評者の私見として、次のように述べた。《意識》は、ノエマ(意味)を構成しつつあるノエシス(両者は不可分)だ。ノエシスは《関心》と《注視》からなる。ハイデガーは、《関心》を、「配慮」(Besorgen)・「待遇」(顧慮)(Fürsorge)、さらに一般的に「関心」(Sorge)として分析する。
《感想3-3》また第16節で、評者の私見として、次のように述べた。「了解」とは、日常用語における《意識》に相当する。《意識》とは、モナド(超越論的主観性)において、常にノエシスとノエマの分裂が起きつつ、同時にノエシスはノエマを構成するということだ。(なおノエシスは、《関心》と《注視》からなる。)
《感想3-4》第12節で、ハイデガーは次のように述べる。「現存在(Dasein)とは、みずから存在しつつこの存在にむかって了解的に態度をとっている存在者(Seiendes)である。」これが「実存」の「形式的な概念」だ。つまり現存在のあり方が「実存」(Existenz)とよばれる。
《感想3-5》これに関して、評者の私見として、次のように述べた。(ア)「了解的」に態度をとる存在者とは、《意識》のことだ。「現存在」は《意識》だ。(イ)《意識》は、ノエマを構成しつつあるノエシス(ただし両者は不可分)だ。(イ)-2 ノエシスは《関心》と《注視》からなる。ハイデガーは《関心》を、「配慮」(Besorgen)・「待遇」・「関心」(Sorge)として分析する。(ウ)A.シュッツは《関心》を、理由動機と目的動機に区分し、前者が後者を生み出すとした。より根源的な理由動機が、死への根本的不安(fundamental anxiety)だ。
(4)「現存在を《関心》と解する存在論的解釈」について、「前存在論的な検証」が必要だ!(「第42節 《関心としての現存在》の実存論的解釈を、現存在の《前存在論的な自己解意》によって検証する」)
F 「現存在を《関心》と解する存在論的解釈」について、「前存在論的な検証」が必要だ。(183頁)
F-2 「現存在はすでに早くから、自己自身について発言するやいなや、自己を――ただ前存在論的にではあるが――《関心》(cura)として解意していた」ということを指摘する。(183頁)
《感想4》「関心」とは「心境(情状性)」の一種,つまり「気分」の一種だ。この「関心」という気分が(行為の)理由動機となり、「意図」「目的」といった(行為の)目的動機が定立される。
《感想4-2》ハイデガーは第29節で言う。存在論的に「心境(情状性)(Befindlichkeit)」と呼ぶものは、存在的には、「気分(Stimmung)、気持ち(Gestimmtsein)」のことだ。「現存在に、いつもすでに気分がある」。「現存在がそこで現としてのおのれの存在に直面させられる」ところの「気分の根源的な開示力」!(これにくらべれば、「認識にそなわる開示力」の射程ははるかに及ばない。(134頁)
《感想4-2-2》私見を述べれば、いわゆる《意識》とは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》だ。その最も基礎的な様式は、一方で、ただ漠然とした《ある》というノエマが構成され、他方で「気分」=「心境」と呼ぶノエシスが(そのノエマを構成しつつ)受動的に(能動的にでなく)注視し、かつ両者は分裂的な統一の内にあるという出来事だ。
《感想4-2-3》ハイデガーは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》のこの最も基礎的な様式について、「気持ち(※気分、心境)のなかで現存在(※そこにあることorそこ、Da)はいつもすでに気分(※気持ち、心境)的に開示されている」(第29節134頁)と表現する。