※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【B】現の日常的存在と現存在の頽落」「第38節 頽落と被投性」(das Verfallen und die Geworfenheit)(その2)
(6)頽落する世界内存在は、誘惑的=鎮静的であるとともに、疎外的である!
J 「鎮静は非本来的なもの(気休め)である」にもかかわらず、その「誘惑的な鎮静は、頽落をいやがうえにも亢進させる。」(177-178頁)
J-2 「現存在(※人間)解釈」について言うと、例えば「未知な文化圏の理解」、「これらの文化と自分の文化との『総合』」によって、「現存在」の「あますところなき、はじめて真正なる解明に達するであろうという見解」が台頭する。(178頁)
J-3 これはしかし「普遍的な現存在理解のそぶり」にすぎない。(178頁)これは「疎外」であり、「ひとごとならぬ自己の存在可能に気づかなくなる。」(178頁)(※これが「非本来性」=「非本来的な了解」だ!)
J-4 「頽落する世界内存在は、誘惑的=鎮静的であるとともに、疎外的である。」(178頁)
(6)-2 疎外は現存在に「本来性」を閉鎖し、「非本来性」に追い込む!おのれ自身への「惑溺」!
K 「疎外は、現存在を、過度の『自己分析』に腐心する存在様相へ駆り立てる。」Ex. 性格学、類型学。(178頁)
K-2 かくて「疎外は現存在に、自己の本来性と可能性とを・・・・《閉鎖する》」。そして「現存在をそれの非本来性に追い込む」。(178頁)
K-2 かくて「頽落の誘惑的=鎮静的な疎外(die versuchend-beruhigende Entfremdung des Verfallens)は・・・・現存在がおのれ自身へ《惑溺する》(verfängen)道へ通ずる」。(178頁)(※つまり「過度の『自己分析』」!)
《感想6》ハイデガーは「本来性」(「本来的な了解」)と「非本来性」(「非本来的な了解」)について次のように述べている。
《感想6-2》第9節でハイデガーは言う。「現存在は・・・・おのれの可能性を存在しているがゆえに、この存在者はその存在において①自己自身を『選びとり』、獲得し、あるいは②自己を失い、また③ただ「みかけだけ」自己を得ているだけで、いちども本当に得なかった、というようなこともありうる。」①が「本来的な了解」であり②③が「非本来的な了解」である。(※①②③は評者による。)
《感想6-3》第31節でハイデガーは言う。「了解(※意識)が主として世界の開示態に身を置き、すなわち現存在(※モナド)がさしあたってたいてい自分の《世界》の方から自己を了解するという可能性がある。」これは「非本来的な了解」である。「了解(※意識)が主としておのれの存在の主旨(目的)(Worum-willen)に身を投じ、すなわち現存在(※モナド)が自己自身として実存するという可能性がある。」これが「本来的な了解」である。(146頁)
《感想6-4》第38節でハイデガーは言う。「現存在の非本来性」とは、「『世界』と《世間(Man)におけるほかの人びととの共同現存在》とによってまったく気をうばわれている世界内存在」ということだ。(176頁)
(6)頽落する世界内存在は、誘惑的=鎮静的であるとともに、疎外的である!
J 「鎮静は非本来的なもの(気休め)である」にもかかわらず、その「誘惑的な鎮静は、頽落をいやがうえにも亢進させる。」(177-178頁)
J-2 「現存在(※人間)解釈」について言うと、例えば「未知な文化圏の理解」、「これらの文化と自分の文化との『総合』」によって、「現存在」の「あますところなき、はじめて真正なる解明に達するであろうという見解」が台頭する。(178頁)
J-3 これはしかし「普遍的な現存在理解のそぶり」にすぎない。(178頁)これは「疎外」であり、「ひとごとならぬ自己の存在可能に気づかなくなる。」(178頁)(※これが「非本来性」=「非本来的な了解」だ!)
J-4 「頽落する世界内存在は、誘惑的=鎮静的であるとともに、疎外的である。」(178頁)
(6)-2 疎外は現存在に「本来性」を閉鎖し、「非本来性」に追い込む!おのれ自身への「惑溺」!
K 「疎外は、現存在を、過度の『自己分析』に腐心する存在様相へ駆り立てる。」Ex. 性格学、類型学。(178頁)
K-2 かくて「疎外は現存在に、自己の本来性と可能性とを・・・・《閉鎖する》」。そして「現存在をそれの非本来性に追い込む」。(178頁)
K-2 かくて「頽落の誘惑的=鎮静的な疎外(die versuchend-beruhigende Entfremdung des Verfallens)は・・・・現存在がおのれ自身へ《惑溺する》(verfängen)道へ通ずる」。(178頁)(※つまり「過度の『自己分析』」!)
《感想6》ハイデガーは「本来性」(「本来的な了解」)と「非本来性」(「非本来的な了解」)について次のように述べている。
《感想6-2》第9節でハイデガーは言う。「現存在は・・・・おのれの可能性を存在しているがゆえに、この存在者はその存在において①自己自身を『選びとり』、獲得し、あるいは②自己を失い、また③ただ「みかけだけ」自己を得ているだけで、いちども本当に得なかった、というようなこともありうる。」①が「本来的な了解」であり②③が「非本来的な了解」である。(※①②③は評者による。)
《感想6-3》第31節でハイデガーは言う。「了解(※意識)が主として世界の開示態に身を置き、すなわち現存在(※モナド)がさしあたってたいてい自分の《世界》の方から自己を了解するという可能性がある。」これは「非本来的な了解」である。「了解(※意識)が主としておのれの存在の主旨(目的)(Worum-willen)に身を投じ、すなわち現存在(※モナド)が自己自身として実存するという可能性がある。」これが「本来的な了解」である。(146頁)
《感想6-4》第38節でハイデガーは言う。「現存在の非本来性」とは、「『世界』と《世間(Man)におけるほかの人びととの共同現存在》とによってまったく気をうばわれている世界内存在」ということだ。(176頁)