※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その4 )
(10)-3 ヘーゲル『精神現象学』の目的:①「絶対知」への「認識論的」序説、②「精神哲学」、③「歴史哲学」、④「体系総論」!
★これまで、ヘーゲル『精神現象学』は①「絶対知」への「認識論的」序説であるという観点からの話がなされた。(74頁)
☆しかしなお『精神現象学』には3つの意味が含まれている。それは『精神現象学』は、②「精神哲学」であること、③「歴史哲学」であること、④「体系総論」であることだ。(74頁)
(10)-3-2 ②「精神哲学」としての『精神現象学』:ヘーゲルの考え方は「弁証法」的であり、「真理」といっても、具体的には「虚偽」と関係なしには成立しない!
★まずヘーゲル『精神現象学』が②「精神哲学」であるという点から見てみよう。(74頁)
☆『精神現象学』(1807)は「精神そのもの」を「展開」するのではなく「精神」の「現象」を取り扱う。「精神そのもの」を「展開」するのは『エンチュクロペディー』第3部(1817)だ。(74頁)
★精神の「現象」を取り扱うということは、必ずしも「真理」ばかりを問題にするのでなく、「虚偽」をも問題にすることだ。ヘーゲルの考え方はつねに「弁証法」的だ。「真理」といっても、具体的には「虚偽」と関係なしには成立しない。(74頁)
☆むろん歴史的真理(事実)(Ex. シーザーがいつ生まれたか)や、物理的真理(事実)(Ex. 1メートルは何尺何寸か)に関する問いには、答えは「何年」あるいは「何尺何寸」しかない。(※「真理」と「虚偽」は峻別される。それは「現実的な生けるもの」が問題になっている場合でないからだ。(74頁)
☆「現実的に生けるもの」が問題である場合には、「定立」に対して必ず「反定立」が必要になってくる。その意味で「真理」に対して「虚偽」が必要になる。「真理」は「虚偽」を契機として含む。(74-75頁)
★「善悪」の対立もそうで(※「弁証法」的で)、「悪」から抽象的に分離された「善」は、単なる抽象にすぎない。真の「善」というものは、「悪」との対抗においてのみ生きて働くものであり、したがって真の「善」は「善悪の対立」を超えたもので、「善悪の彼岸」にあるとヘーゲルは考える。(75頁)
★「精神の本質」と「精神の現象」の場合も同様で、「精神の本質」といっても「精神の現象」をほかにしてはみずからを現実化しえない。かくて『精神現象学』をほかにして、「精神の本質」は把握されない。その意味でヘーゲルにおける『精神現象学』は、実は「精神哲学」でもあることになる。(75頁)
(10)-3-3 ③「歴史哲学」としての『精神現象学』:ヘーゲルの「絶対知の哲学」といっても、「ヘーゲル個人が考え出したもの」でなく、「時代からまさに要求されているもの」であり、そういう意味で「歴史を離れえないもの」だ!
★へーゲル哲学の根本概念である「主体」、「精神」、「理性」などの概念は、精神の「現在」の立場から規定されている。つまりヘーゲルにおいて「認識」とか「理性」とか「精神」といわれるものは、つねに「歴史性」を離れえない。(75頁)
☆ヘーゲルの「絶対知の哲学」といっても、彼の立場からいうと、「ヘーゲル個人が考え出したもの」でなく、「時代からまさに要求されているもの」だということだ。そういう意味で「歴史を離れえないもの」だ。(75頁)
☆『精神現象学』は元来、ヘーゲルの哲学体系への「認識論的」序説にほかならないが、それが次第に大きなものになって、それ自身、体系の第1部となったということの一つの大きな原因は、彼の「精神」という概念がつねに「歴史」を離れえず、『精神現象学』のなかへ「歴史哲学」がはいっているということにある。(75頁)
★ヘーゲル『精神現象学』の目次を見ると、(B)「自己意識」あるいはⅣ「自己確信の真理性」のBに「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」というのがある。これらは「歴史を離れて成立する意識形態」として論ぜられるが、「ストア主義」、「スケプシス主義」の名が示すように、実際には歴史を離れえない。また「不幸なる意識」はキリスト教を材料としている。(75-76頁)
☆さらに(C)「理性」(BB)「精神」あるいはⅥ「精神」のA「真実なる精神」も、ギリシア時代を離れては理解できない。(76頁)
・またB「自己疎外的精神」は中世から近世にかけてのものであり、その中の特にⅡ「啓蒙」という段階は啓蒙時代を離れてはとうてい理解しえない。次のⅢ「絶対自由と恐怖」もフランス革命を離れては理解できない。(76頁)
・C「自己確信的精神、道徳性」の段階は、ドイツのロマンティスィズムの時代を離れては理解できない。(76頁)
☆(C)「理性」(CC)「宗教」あるいはⅦ「宗教」のA「自然宗教」は東方宗教を、B「芸術宗教」はギリシア宗教を、C「啓示宗教」はキリスト教を、それぞれ離れては理解できない。(76頁)
★かくて(C)「理性」(DD)「絶対知」あるいはⅧ「絶対知」も、啓蒙からロマンティスィズムへと進んできた時代というものを離れては、とうてい成りたちえない。そういう意味で、「精神」の概念は「歴史」を離れえない。(76頁)
☆したがってヘーゲルの『精神現象学』は、実に雄大な「歴史哲学」である。(76頁)
(10)-3-4 ④「体系総論」としての『精神現象学』:①「絶対知」への「認識論的」序説であり、同時に②「精神哲学」であり、③「歴史哲学」でもあることから、おのずから④「体系総論」である!Cf. ある程度まで「自然哲学」も含まれる!
★かくてヘーゲル『精神現象学』は、元来は①「絶対知」への「認識論的」序説であるけれども、同時に②「精神哲学」であり、③「歴史哲学」でもあるということから、おのずから④「体系総論」である。(77頁)
☆追記:なおこのほかに(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」のA「観察的理性」の段階において自然認識が展開されていて、ヘーゲル『精神現象学』にはある程度まで「自然哲学」も含まれている。(77頁)
★ヘーゲル『精神現象学』が「体系総論」である点は、カントの『純粋理性批判』がカント哲学全体であったのと同じだ。(77頁)
《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(36-38頁)(53-54頁)(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(C)「理性」(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(C)「理性」(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(C)「理性」(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その4 )
(10)-3 ヘーゲル『精神現象学』の目的:①「絶対知」への「認識論的」序説、②「精神哲学」、③「歴史哲学」、④「体系総論」!
★これまで、ヘーゲル『精神現象学』は①「絶対知」への「認識論的」序説であるという観点からの話がなされた。(74頁)
☆しかしなお『精神現象学』には3つの意味が含まれている。それは『精神現象学』は、②「精神哲学」であること、③「歴史哲学」であること、④「体系総論」であることだ。(74頁)
(10)-3-2 ②「精神哲学」としての『精神現象学』:ヘーゲルの考え方は「弁証法」的であり、「真理」といっても、具体的には「虚偽」と関係なしには成立しない!
★まずヘーゲル『精神現象学』が②「精神哲学」であるという点から見てみよう。(74頁)
☆『精神現象学』(1807)は「精神そのもの」を「展開」するのではなく「精神」の「現象」を取り扱う。「精神そのもの」を「展開」するのは『エンチュクロペディー』第3部(1817)だ。(74頁)
★精神の「現象」を取り扱うということは、必ずしも「真理」ばかりを問題にするのでなく、「虚偽」をも問題にすることだ。ヘーゲルの考え方はつねに「弁証法」的だ。「真理」といっても、具体的には「虚偽」と関係なしには成立しない。(74頁)
☆むろん歴史的真理(事実)(Ex. シーザーがいつ生まれたか)や、物理的真理(事実)(Ex. 1メートルは何尺何寸か)に関する問いには、答えは「何年」あるいは「何尺何寸」しかない。(※「真理」と「虚偽」は峻別される。それは「現実的な生けるもの」が問題になっている場合でないからだ。(74頁)
☆「現実的に生けるもの」が問題である場合には、「定立」に対して必ず「反定立」が必要になってくる。その意味で「真理」に対して「虚偽」が必要になる。「真理」は「虚偽」を契機として含む。(74-75頁)
★「善悪」の対立もそうで(※「弁証法」的で)、「悪」から抽象的に分離された「善」は、単なる抽象にすぎない。真の「善」というものは、「悪」との対抗においてのみ生きて働くものであり、したがって真の「善」は「善悪の対立」を超えたもので、「善悪の彼岸」にあるとヘーゲルは考える。(75頁)
★「精神の本質」と「精神の現象」の場合も同様で、「精神の本質」といっても「精神の現象」をほかにしてはみずからを現実化しえない。かくて『精神現象学』をほかにして、「精神の本質」は把握されない。その意味でヘーゲルにおける『精神現象学』は、実は「精神哲学」でもあることになる。(75頁)
(10)-3-3 ③「歴史哲学」としての『精神現象学』:ヘーゲルの「絶対知の哲学」といっても、「ヘーゲル個人が考え出したもの」でなく、「時代からまさに要求されているもの」であり、そういう意味で「歴史を離れえないもの」だ!
★へーゲル哲学の根本概念である「主体」、「精神」、「理性」などの概念は、精神の「現在」の立場から規定されている。つまりヘーゲルにおいて「認識」とか「理性」とか「精神」といわれるものは、つねに「歴史性」を離れえない。(75頁)
☆ヘーゲルの「絶対知の哲学」といっても、彼の立場からいうと、「ヘーゲル個人が考え出したもの」でなく、「時代からまさに要求されているもの」だということだ。そういう意味で「歴史を離れえないもの」だ。(75頁)
☆『精神現象学』は元来、ヘーゲルの哲学体系への「認識論的」序説にほかならないが、それが次第に大きなものになって、それ自身、体系の第1部となったということの一つの大きな原因は、彼の「精神」という概念がつねに「歴史」を離れえず、『精神現象学』のなかへ「歴史哲学」がはいっているということにある。(75頁)
★ヘーゲル『精神現象学』の目次を見ると、(B)「自己意識」あるいはⅣ「自己確信の真理性」のBに「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」というのがある。これらは「歴史を離れて成立する意識形態」として論ぜられるが、「ストア主義」、「スケプシス主義」の名が示すように、実際には歴史を離れえない。また「不幸なる意識」はキリスト教を材料としている。(75-76頁)
☆さらに(C)「理性」(BB)「精神」あるいはⅥ「精神」のA「真実なる精神」も、ギリシア時代を離れては理解できない。(76頁)
・またB「自己疎外的精神」は中世から近世にかけてのものであり、その中の特にⅡ「啓蒙」という段階は啓蒙時代を離れてはとうてい理解しえない。次のⅢ「絶対自由と恐怖」もフランス革命を離れては理解できない。(76頁)
・C「自己確信的精神、道徳性」の段階は、ドイツのロマンティスィズムの時代を離れては理解できない。(76頁)
☆(C)「理性」(CC)「宗教」あるいはⅦ「宗教」のA「自然宗教」は東方宗教を、B「芸術宗教」はギリシア宗教を、C「啓示宗教」はキリスト教を、それぞれ離れては理解できない。(76頁)
★かくて(C)「理性」(DD)「絶対知」あるいはⅧ「絶対知」も、啓蒙からロマンティスィズムへと進んできた時代というものを離れては、とうてい成りたちえない。そういう意味で、「精神」の概念は「歴史」を離れえない。(76頁)
☆したがってヘーゲルの『精神現象学』は、実に雄大な「歴史哲学」である。(76頁)
(10)-3-4 ④「体系総論」としての『精神現象学』:①「絶対知」への「認識論的」序説であり、同時に②「精神哲学」であり、③「歴史哲学」でもあることから、おのずから④「体系総論」である!Cf. ある程度まで「自然哲学」も含まれる!
★かくてヘーゲル『精神現象学』は、元来は①「絶対知」への「認識論的」序説であるけれども、同時に②「精神哲学」であり、③「歴史哲学」でもあるということから、おのずから④「体系総論」である。(77頁)
☆追記:なおこのほかに(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」のA「観察的理性」の段階において自然認識が展開されていて、ヘーゲル『精神現象学』にはある程度まで「自然哲学」も含まれている。(77頁)
★ヘーゲル『精神現象学』が「体系総論」である点は、カントの『純粋理性批判』がカント哲学全体であったのと同じだ。(77頁)
《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(36-38頁)(53-54頁)(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(C)「理性」(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(C)「理性」(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(C)「理性」(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」