「花」
いちりんの花をとって
その中を ごらんなさい
じっと よく見てごらんなさい
花の中に町がある
黄金にかがやく宮殿がある
人がいく道がある 牧場がある
みんな いいにおいの中で
愛のように ねむっている
《感想1》
花の中に、「町」、「黄金にかがやく宮殿」、「人がいく道」、「牧場」があるという。しかし、それらは、どこにあるのか?花の向こう側にあるのだ。それはちょうど、表情の向こうに、心があるのと同じだ。花は記号だ。表情は記号だ。
《感想1-2》
記号が指示するもの(意味)は、どのように決まるか?記号が指示するもの(意味)は、かつて記号を含んだ宇宙の総体だ。宇宙の総体の時間的連続のうちから、重なるものが、二種類、抽出される。簡便・狭小なものが記号となり、複雑・広大ものが、記号が指示するもの(意味)となる。(Cf. 記号も記号が指示するものも、実はイデアで、この現実の外にあるが、それについては、今は論じない。)
《感想1-3》
この詩人は、「花」という記号の向こう側に、《普通、人々が見出だしてきた宇宙のかさなり(意味)》と、異なる《宇宙の重なり(意味)》を見出す。
①記号「花」は《「境界を持ち、賑やか」と言う意味》を指示し、この意味は《記号「町」が指示する意味》と同じなので、彼は「花」の向こう側に、「町」を見る。
②記号「花」は《「豪華に輝く」と言う意味》を指示し、この意味は《記号「黄金にかがやく宮殿」が指示する意味》と同じなので、彼は「花」の向こう側に、「黄金にかがやく宮殿」を見る。
③また記号「花」は、一方で、《記号「町」と重なる意味》をもつが、他方で記号「町」は、《記号「花」と重ならない意味》、つまり《「人がいく道」(町に道がある)や「牧場」(町の周囲に広がる)という意味》を含む。かくて詩人は、「花」の向こう側に、記号「町」を媒介として、《記号「人がいく道」や「牧場」が指示する意味(宇宙の重なり)》を、見る。
《感想1-4》
この詩人は、記号「花」の向こう側に、《普通、人々が見出だしてきた宇宙のかさなり(意味)》と異なる《宇宙の重なり(意味)》を、彼固有に見いだす。そして、詩人には自信があり、《自分が見る宇宙の重なり方(意味)》を「少年」たちに、「じっと/よく見てごらんなさい」と言って推奨する。
《感想1-5》
詩人が好むのは《「町」、「黄金にかがやく宮殿」、「人がいく道」、「牧場」》が、「いいにおいの中で/愛のように/ねむっている」ことだ。(これは、次の、第2連で、「美しさ」、「平和な世界」と言いかえられる。)
ああ なんという美しさ
なんという平和な世界
大自然がつくりだした
こんな小さいものの中にも
みちみちている清らかさ
《感想2》
詩人が価値ありと思うのは、「美しさ」、「平和な世界」だ。
《感想2-2》
詩人は「美しさ」の意味に、「善」を含ませる。言い換えれば「醜さ」に「悪」を含ませる。詩人は「醜悪」という言葉に見られる《「醜さ」と「悪」の結合》を当然とみなす。
《感想2-3》
しかし評者が思うには、「醜」は、善悪と切り離すべきだ。「醜」は「悪」でない。「美醜」の区別に含まれる有価値・無価値の区別(価値区別)は、「善悪」の価値区別と無縁だ。
《感想2-4》
詩人が言う「美しさ」は、「善」と読み替えられるべきだ。彼は《「美」でなく、実は「善」に、価値がある》と言っているのだ。
《感想3》
「善悪」の差違の究極の根拠は、様々だ。
①神・天・仏など超此岸的な価値を究極善とする宗教的立場がある。(この場合、異なる宗教的立場の者は悪鬼であり、その皆殺しが目標となる。)
②此岸的な自然の秩序を究極善とする立場がある。(もちろん自然は善悪と無縁だとの科学の立場もある。また汎神論的に自然を究極善とする立場もある。)
③人間の存在そのものが究極善だとする立場がある。(ここから《人間の殺し合いの回避、つまり「平和」》は、善だと言われる。)
《感想3-2》
詩人は①神・天・仏について語らない。しかし②自然を究極善とみなす。(自然は「清らかさ」を生産する。この「清らかさ」とは、「美しさ」、「平和」と等価であり、つまり「善」と等価だ。)さらに、詩人は③《人間の存在そのものが究極善だ》とする立場に立つ。
この花の けだかさを
生まれたままの美しさを
いつまでも 心の中にもって
花のように
私たちは生きよう
《感想4》
花の「美しさ」および「平和な世界」(つまり花の内の「町」、「黄金にかがやく宮殿」、「人がいく道」、「牧場」)は善だ、あるいは善の実現だと、詩人は思う。このことをさして、彼は、花は「けだかさ」を持つと言う。
《感想4-2》
だが「花」は、その向こう側に、「善の実現」という意味(宇宙の重なり)を本当に持つのか?つまり自然を究極善とみなして(②)、よいのか?
《感想4-3》
詩人は、「美しさ」に、「善」を含ませるが、それは誤りでないのか?「美醜」の区別に含まれる有価値・無価値の区別は、「善悪」の価値的区別と無縁なはずだ。(前述)
《感想4-3》
詩人にとって「善」とは、《人間の存在そのものが究極善だとする立場》からのものだ(③)。(かくて人間の殺し合いの回避、つまり「平和」が、善とされる。)
《感想4-4》
同時に詩人は、《此岸的な自然の秩序を究極善とする立場》もとる(②)。かくて、彼は「生まれたまま(※自然)の美しさ」をいつまでも心の中にもって「花のように」生きようと言う。
いちりんの花をとって
その中を ごらんなさい
じっと よく見てごらんなさい
花の中に町がある
黄金にかがやく宮殿がある
人がいく道がある 牧場がある
みんな いいにおいの中で
愛のように ねむっている
《感想1》
花の中に、「町」、「黄金にかがやく宮殿」、「人がいく道」、「牧場」があるという。しかし、それらは、どこにあるのか?花の向こう側にあるのだ。それはちょうど、表情の向こうに、心があるのと同じだ。花は記号だ。表情は記号だ。
《感想1-2》
記号が指示するもの(意味)は、どのように決まるか?記号が指示するもの(意味)は、かつて記号を含んだ宇宙の総体だ。宇宙の総体の時間的連続のうちから、重なるものが、二種類、抽出される。簡便・狭小なものが記号となり、複雑・広大ものが、記号が指示するもの(意味)となる。(Cf. 記号も記号が指示するものも、実はイデアで、この現実の外にあるが、それについては、今は論じない。)
《感想1-3》
この詩人は、「花」という記号の向こう側に、《普通、人々が見出だしてきた宇宙のかさなり(意味)》と、異なる《宇宙の重なり(意味)》を見出す。
①記号「花」は《「境界を持ち、賑やか」と言う意味》を指示し、この意味は《記号「町」が指示する意味》と同じなので、彼は「花」の向こう側に、「町」を見る。
②記号「花」は《「豪華に輝く」と言う意味》を指示し、この意味は《記号「黄金にかがやく宮殿」が指示する意味》と同じなので、彼は「花」の向こう側に、「黄金にかがやく宮殿」を見る。
③また記号「花」は、一方で、《記号「町」と重なる意味》をもつが、他方で記号「町」は、《記号「花」と重ならない意味》、つまり《「人がいく道」(町に道がある)や「牧場」(町の周囲に広がる)という意味》を含む。かくて詩人は、「花」の向こう側に、記号「町」を媒介として、《記号「人がいく道」や「牧場」が指示する意味(宇宙の重なり)》を、見る。
《感想1-4》
この詩人は、記号「花」の向こう側に、《普通、人々が見出だしてきた宇宙のかさなり(意味)》と異なる《宇宙の重なり(意味)》を、彼固有に見いだす。そして、詩人には自信があり、《自分が見る宇宙の重なり方(意味)》を「少年」たちに、「じっと/よく見てごらんなさい」と言って推奨する。
《感想1-5》
詩人が好むのは《「町」、「黄金にかがやく宮殿」、「人がいく道」、「牧場」》が、「いいにおいの中で/愛のように/ねむっている」ことだ。(これは、次の、第2連で、「美しさ」、「平和な世界」と言いかえられる。)
ああ なんという美しさ
なんという平和な世界
大自然がつくりだした
こんな小さいものの中にも
みちみちている清らかさ
《感想2》
詩人が価値ありと思うのは、「美しさ」、「平和な世界」だ。
《感想2-2》
詩人は「美しさ」の意味に、「善」を含ませる。言い換えれば「醜さ」に「悪」を含ませる。詩人は「醜悪」という言葉に見られる《「醜さ」と「悪」の結合》を当然とみなす。
《感想2-3》
しかし評者が思うには、「醜」は、善悪と切り離すべきだ。「醜」は「悪」でない。「美醜」の区別に含まれる有価値・無価値の区別(価値区別)は、「善悪」の価値区別と無縁だ。
《感想2-4》
詩人が言う「美しさ」は、「善」と読み替えられるべきだ。彼は《「美」でなく、実は「善」に、価値がある》と言っているのだ。
《感想3》
「善悪」の差違の究極の根拠は、様々だ。
①神・天・仏など超此岸的な価値を究極善とする宗教的立場がある。(この場合、異なる宗教的立場の者は悪鬼であり、その皆殺しが目標となる。)
②此岸的な自然の秩序を究極善とする立場がある。(もちろん自然は善悪と無縁だとの科学の立場もある。また汎神論的に自然を究極善とする立場もある。)
③人間の存在そのものが究極善だとする立場がある。(ここから《人間の殺し合いの回避、つまり「平和」》は、善だと言われる。)
《感想3-2》
詩人は①神・天・仏について語らない。しかし②自然を究極善とみなす。(自然は「清らかさ」を生産する。この「清らかさ」とは、「美しさ」、「平和」と等価であり、つまり「善」と等価だ。)さらに、詩人は③《人間の存在そのものが究極善だ》とする立場に立つ。
この花の けだかさを
生まれたままの美しさを
いつまでも 心の中にもって
花のように
私たちは生きよう
《感想4》
花の「美しさ」および「平和な世界」(つまり花の内の「町」、「黄金にかがやく宮殿」、「人がいく道」、「牧場」)は善だ、あるいは善の実現だと、詩人は思う。このことをさして、彼は、花は「けだかさ」を持つと言う。
《感想4-2》
だが「花」は、その向こう側に、「善の実現」という意味(宇宙の重なり)を本当に持つのか?つまり自然を究極善とみなして(②)、よいのか?
《感想4-3》
詩人は、「美しさ」に、「善」を含ませるが、それは誤りでないのか?「美醜」の区別に含まれる有価値・無価値の区別は、「善悪」の価値的区別と無縁なはずだ。(前述)
《感想4-3》
詩人にとって「善」とは、《人間の存在そのものが究極善だとする立場》からのものだ(③)。(かくて人間の殺し合いの回避、つまり「平和」が、善とされる。)
《感想4-4》
同時に詩人は、《此岸的な自然の秩序を究極善とする立場》もとる(②)。かくて、彼は「生まれたまま(※自然)の美しさ」をいつまでも心の中にもって「花のように」生きようと言う。