DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

吉村昭(1927ー2006)「梅の蕾」(1995年):村の診療所という制度(組織化・ルール化された人間行動)を支える動機(目的)、そしてその基礎にある感情が、描かれる! 

2018-06-17 21:27:11 | 日記
(1)
早瀬は、三陸のある村の村長だ。彼はすでに村長4期目だ。彼の最大の悩みは、村営の診療所に医師が来ないことだった。
(2)
14年前、彼が村長に就任した時、村は三陸海岸の陸の孤島と呼ばれ、県下でももっとも貧しい村の代表だった。
(2)-2
早瀬は強引に県・中央に陳情を繰り返し、まず漁港の港湾施設を整備した。さらに酪農事業、鮭の稚魚の放流、アイスクリーム製造、合鴨の飼育など産業振興につとめ、村人の収入は増加した。
(2)-3
また早瀬は、村のリアス式海岸の素晴らしい景観をいかし、観光開発に尽力した。村営の旅宿の建設、観光船の購入など。かくて観光バスが連なってやってくるようになった。村は、海岸に鉄筋5階建てのホテルを建設した。さらに、宿願の鉄道線路敷設も実現した。
(3)
しかし村営の診療所に医師は来ない。村長の早瀬は、盛岡市医師対策室に「医師を探してほしい」という願書を出した。だが、むなしく1年半が経ぎた。
(4)
堂前医師赴任の1年前:今年4月、県庁から一つの情報が入った。積極的に振興策をとる村の現状が、中央紙の日曜版に紹介されたが、その記事を見た千葉県在住の医師・堂前(45歳)から、「村の診療医になってもいい」という問い合わせがあったという。早瀬は、診療所の事務長に資料をもたせ、堂前のもとに行かせた。
(4)-2
7月、早瀬は「堂前の気まぐれかもしれない」と期待がしぼんだ。ところが、堂前から「東京で会いたい」との連絡が早瀬にきた。会ってみると、堂前が、なんと「村の診療医にさせてください」と言った。ただ「家内が反対だ」という。子供が二人いて、上が小学校2年で教育の心配がある。頼りは、「彼女の唯一の趣味が、山野を歩いて植物採集することなので、村への移住に賛成するようになるかもしれない」とのことだった。
(4)-3
晩秋、初雪の日、堂前が夫人を連れて、村を訪れた。堂前によれば、「妻がいちおう、村を見てみたいと言った」とのことだった。
(4)-4
彼らが帰って、村長の早瀬は、あまり期待しなかった。夫人の表情が堅かったからだ。
(4)-5
年が明け、医師・堂前から連絡はなかった。村長の早瀬はすっかりあきらめた。ところが3月中旬、突然、堂前から連絡があり、「3月下旬に、家族全員、そちらに移る」と言う。彼らは、予定通りやってきた。村は歓迎会を催し、村民100名以上が出席した。夫人の表情は、以前と異なり明るかった。
(5)
堂前医師赴任1年目:4月、診療所での医師・堂前は、的確な指示、温厚な人柄など、評判が大変よかった。堂前の小学生の長男は学校になじみ、成績もよかった。野草の採取が趣味の夫人は、村の女や老女の案内で、ひんぱんに山野を歩き回った。
(5)-2
5月、堂前が早瀬を訪れ、「妻には難病があり、3ヶ月に1度、千葉の癌センターに通う必要がある」と伝えた。
(5)-3
夫人は、「村にきてよかった」と口癖のように言っているとのことだった。野草類の採取だけでなく、キノコ類の採取にも夫人は、村人たちと行き、また訪れてくる村の女たちとお茶を飲み、楽しく話をした。
(5)-4
年が明け、堂前と千葉市へ検診に行った夫人が、梅の苗木を買い宅配便で送らせた。早瀬は、そのうちの1本を贈られた。苗木に梅の花が開き、雪が消えると、再び、夫人は嬉々として村の女たちと駕籠を背負い山に入った。
(6)
堂前医師赴任2年目:堂前の次男も、小学校に入学した。夏が過ぎ、やがて枯れ葉が舞うようになった頃、早瀬が久しぶりに堂前の家によると、夫人は部屋で村の女たちとお茶を飲んでいた。しかし、夫人は頬がげっそりとこけ、病状がすすんでいるようだった。間もなく、夫人は千葉市の癌センターに入院した。夫人は白血病だった。
(16)
翌年、寒気が緩み、庭の梅の蕾(ツボミ)がふくらんだ頃、夫人が亡くなった。湘南地方にある夫人の実家で、葬儀が行われた。村長の早瀬と収入役たちが、葬儀に参加した。葬儀の途中、大型バスと6台のマイクロバスが到着した。早瀬は驚いた。それは200名以上の村の者たちだった。彼らは、バスをチャーターし、三陸から湘南まで来た。早瀬は、嗚咽(オエツ)した。
(17)
その間、村の診療所は、休診となる。早瀬は、「これで終わりだ」と思った。「堂前が、村に赴任してきたのは、野草が好きな夫人の死期が迫っていたためだ。そのような特殊な事情がない限り、村にやって来る医師などいない。」早瀬は、医者探しの努力をする気が失せた。
(18)
すでに葬儀から20日が経った。その時、役場に小型タクシーが入ってきた。堂前が降り立つ。「子供たちは妻の実家で預かり、私は、単身赴任で、村の診療所に残ります」と堂前が言った。「妻の葬儀の時に、あんなに多くの人が来てくれました。あれを見たら、村にもどらぬわけに行きません。」堂前医師赴任3年目が始まった。

《感想》
この小説は、「無医村」の問題の制度的解決策を示すものでない。そもそも制度とは、組織化・ルール化された人間行動のことだ。人間行動を支えるのは、動機(目的)、そしてその基礎にある感情だ。この小説は、村の診療所という制度(組織化・ルール化された人間行動)を支える動機(目的)、そしてその基礎にある感情を、描く。
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新川和江(1929-)「ふゆのさくら」(1968年):《現実の結婚》が、結婚のすべてでない! 結婚は、《魂の結婚》でもある!&物体世界に魂が出現するためには憑代として物体が必要だ!

2018-06-17 01:31:26 | 日記
 ふゆのさくら Cherry blossoms in winter

おとことおんなが A mam marries a woman
われなべとじぶたしきにむすばれて in such a way as a broken pot marries a broken lid.
つぎのひからはやぬかみそくさく From the next day, she has smell of fermented rice-bran paste at once.
なっていくのはいやなのです I hate we come to be that way.

《感想1》
ぬかみそ臭い主婦を、この詩人は嫌う。子育ての大変さも嫌う。また生活(Ex. 貧困)の苦労も嫌う。詩人は、(身体があることを前提する)現実の結婚を嫌う。

あなたがしゅろうのかねであるなら If you are a bell of a bell tower,
わたくしはそのひびきでありたい I want to become sound of the bell.
あなたがうたのひとふしであるなら If you are a phrase of a song,
わたくしはそのついくでありたい I want to become an antithesis.
あなたがいっこのれもんであるなら If you are a lemon,
わたくしはかがみのなかのれもん I want to become a lemon reflected in a mirror.
そのようにあなたとしずかにむかいあいたい In such a way, I am quietly with you face to face.

《感想2》
詩人は、「われなべ」と「とじぶた」式の結婚を嫌う。生活・生計の確保のため協同・協力する、それが現実の結婚だ。(身体を前提とする)現実においては、食べねばならない、衣服を着なければならばない、雨露をしのぐ家・部屋・アパートが無ければならない。詩人はそうした現実の結婚を嫌う。
《感想2-2》
詩人は、魂の結婚を夢想する。鐘楼の鐘とその響き、歌の一節とその対句、1個のレモンとその鏡像であるレモン。そのようにあなたの魂と私の魂が向かい合うこととしての結婚を、詩人は夢想する。

たましいのせかいでは In a world of souls,
わたくしもあなたもえいえんのわらべで you and I are children forever,
そうしたおままごともゆるされてあるでしょう and we are given permission to play house in such a way.

《感想3》
魂の結婚は、《日常生活の一切の衣食住、そのための生計費の獲得、老病死への対策》など、生活の苦労に満ちた現実の結婚と異なる。魂の結婚の当事者は、生活の苦労と無縁な永遠の子供だ。魂の結婚は、子供のおままごとに似る。

しめったふとんのにおいのする Smell of wet huton-mattresses is filled,
まぶたのようにおもたくひさしのたれさがる and eaves heavily hang like eyelids.
ひとつやねのしたにすめないからといって Even though we cannot live in such a house,
なにをかなしむひつようがありましょう we need not be sorrowful at all.

《感想4》
結婚は、《現実の結婚》としては、湿った布団の匂いに満ち、重く庇が垂れ下がる生活の苦労に満ちた一つ屋根の下に住むことだ。しかし、それが結婚のすべてでない。結婚は、《魂の結婚》でもある。

ごらんなさいだいりびなのように Look at the place where we sit side by side
わたしたちがならんですわったござのうえ like emperor and empress dolls on a goza mat.
そこだけあかるくくれなずんで Only there, the sunlight is brightly lingering,
たえまなくさくらのはなびらがちりかかる and petals of cherry blossoms are continuously falling over.

《感想5》
結婚した双方は、生きた身体を持たなくてよい。魂の憑代(ヨリシロ)として非生物の物体があればよい。魂の結婚は本来、形ある物を必要としない。ただし、この世、つまり物体世界に魂が出現するためには憑代として物体が必要だ。この詩人はその物体が「だいりびな」だと言う。
《感想5-2》
魂の結婚を《讃える》物体or物体的出来事は何か。それは《明るさ、つまり暮れなずむこと》、そして《絶え間なく散る桜の花びら》だ。この2つの物体or物体的出来事が、ここでは讃えるという《感情》(感情は魂の世界に属し物体的形を持たない)の憑代とされる。

《注》詩の区切りは、評者による。
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