
漱石の『門』を読みました。
『三四郎』『それから』の続きで読んだものですが、
今でこそ参禅するという主人公の行動は新しい行動で
珍しい解決策として注目されますが、明治の当時は
どのように受け止められたのでしょうか。
それと前回のそれからでも感じたように、主人公の
行動と解決策には疑問が沸きます。
それと同時に色々と人生経験を経た今だからそう感じる
のか、若かりしときにこれを読んだ時にはどんなことを
感じたか逆に気になったりしました。
今回も主人公の何もしない行動にいらだったり、こう
すりゃいいじゃんと文句を言ったり、なんとももどかしい
だけで主人公に共感したり、新しい視点を得たりすること
もなく、なんでこんな煮え切らない物語に世の人はずっと
魅了され読み継がれるのかと思うのです。
だいたい漱石の物語の主人公は無産の小役人だったり、
恋も愛も無知な青年だったり、田舎から出て来た無垢な精神
だったり、自らを高等遊民などという実際世の中には
一切寄与しようもない人ばかりなのです。
過去に人を裏切り、それが元で学校をやめ親戚付き合いも
危うくなり、親の財産や債権もあやふやとなってしまうなど
という事もいくらでも抜け出すことやたいした問題でもない
ようなのに度重なる流産やらとそれに加算するかのような
混迷に対比する高等遊民の子だくさんでにぎやかな家庭と
いつも舞台立てはにたようなものです。
しかし、今回の主人公がとった参禅はおやと思わせます。
を例によってこれをきっかけによって精神的救いが訪れた
とか視点を得たとかいう結末ではありません。
しかし、人生において場面は良い方向に向かうかのような
展開に主人公のつぶやきにすべてが集約され参禅した効果も
それに沿うかのような彩となるのです。
ここまで漱石を読んできて、日本の現代の小説というのは
漱石が元であり、それを超えているのかという疑問です。
ノーベル文学賞の候補になり海外でも読者の多い村上春樹
も結局この漱石の焼き直しで、それを超えたかという疑念が
より強くなるばかりです。
それだけ、強い漱石の魅力であり作品の力があるといえる
のかもしれません。
作品中に出てくる美術品が今でも輝きを失わないのと同様
作品における何もしない主人公も結局何かを求める読者と
同じたちばなの人達であり、悩み多ければよりその解放に
近づくという感じになる構造に至っているようで、人生に
於いて色々と何かの答えのようなものを作り出した人には
またその原点を見せてくれるような味わいもあるのかと
考えさせます。
そんなことを考えてまたいくつか作品を読んでみようという
気にさせた初期三部作でした。
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