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King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

ドストエフスキー『白痴』感想

2012年12月10日 12時49分33秒 | 読書


ドストエフスキー『白痴』
ドフトエフスキーという作家は緻密なストリー展開と計算された構築で読ませる作家ではなく、
舞台監督のような演出家的な作家なのだと思います。

作り出したキャラクターを配置したらあとはそのキャラがそれぞれ勝手に演じさせるに任せて
それが思うに任せぬ結果になったり、方向を見失うと修正すべく新たな登場人物の創造と登場
で、舞台を導こうとします。

今回も3度も終結に向けて動きますが、公爵と二人の美女とその恋敵の三すくみ四すくみの
人間関係も思う方向に向かないと思うと新たな恋敵に謎のЩ公爵が登場するも自然と
エバンチン家に溶け込みムイシュキン公爵と恋敵に発展することもなく、最後はその
謎もいくらかけりをつけられてしまいます。

次のテコ入れは、公爵偽物疑惑とイボリートの自殺騒ぎです。

こういった群像劇の中、舞台劇のように物語は進んでいくのですが、どきっとする
位リアルな文章も交じり、これは作家の実体験なのだとすぐに解る部分が二か所
あります。

ひとつは死刑を待つ人々の描写です。もう一つは癲癇の発作の記述です。これは
ぞくっとするくらいのリアル感があり、生の実体験の傷口が開いた状態のまだ血が
滴るようなリアル感があります。

そういったものに比べると人物描写など自分の想像した人物像とその役者が語りだす
世界は演じだしたもののやはり気に入らず行きつ戻りつしたり新登場の人物を繰り出して
修正を迫りますが、結局最後は主要登場人物の死を持ってしか収拾できないこととなり
この物語の一番の成果であるムイシュキン公爵というキャラクターの創造とその表現の
最大の武器としての白痴と実際の差別的な病的な意味での精神障害と諸々を含んでおり
キリスト教的な善と愛にそれに白痴でもあるという個性はカラマーゾフの兄弟のアリーシャ
につながる最大の成果かもしれません。

こんな愛の絡み合う世界に私たちはなにがしかの解を見出そうとあがき、神の沈黙に
一度は新世界の絶望し、神は死んだと表しても、やはり愛という存在は捨てきれず
我々はこんな昔の小説を読み返しているのでしょう。



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