『虞美人草』は若い時に読んだのと
随分違う印象を与えました。
色々な人が読んで酷評している部類の作品ですが、これは
『こころ』や『三四郎』のような人気の代表作と同様主張しているもの
はおなじで、手法も現代の小説に多大な影響と基礎になっている
物を含んでいます。
まずはモチーフに出てくる美術品や植物や人物像を見ていくと
このそもそもの虞美人草とはなんなのかというと縁日で買った鉢植え
であるとかなんとはないような道具立てで、登場人物もあえて
特別な人を想像したというより、ロシアの小説のような人を
書いてそれが勝手に動き出すかのような群像小説なのかというと
そうでもなく、得意の高等遊民とこれから世に出ていくであろう
若者とそれを取り巻く美人たちといかにもドラマが生まれる構図を
持っています。
地方の人にとっては都会の生き生きとした生活ととらえたでしょうし、
路面電車が走り、美術展や芝居小屋の描写や音楽の表現は文化の投影
として新聞から見る今の東京の世界であり、そのすべてを衝撃と興味
によって受け取られたのでしょう。
なかでも当時この藤尾という女性を新しい現代的な生き方として
そのファッションまでが人気になったと言います。
この物語の結末というかこの藤尾の最後の描き方も若い時に読んだ
のと今読んでみたときに、今はとにかくこの結末はかなり衝撃的で
手法的な物語だなと感じたのです。あざといという結末ともいえる
持って行き方で、そもそもなぜこの文体とふざけたような呼称とか
クレオパトラとか紫とか謎の女とか自由自在でありながら、やはり
最後躍動感とともに一気に終局に持って行く舞台転換と雨と車の
疾駆感など未舗装の道路と人力車なのに妙に絵が浮かぶ文体です。
そして、彼がテーマとしている真面目ですかについてはまとめて
後で書きたいと思います。
京都から東京という舞台転換と登場人物、どれも見事としか
いえない作品です。
よく、前期三部作、後記三部作という呼ばれ方で、だいたい
その代表作を読めば漱石は網羅したと同様という世間的評価が
あるようですが、とかく読み残されるものには独特の楽しみが
あるものです。
因みにポピーは私の好きな花です。
抱一と虞美人草のコラボなど漱石の遊びと人は言いますが、
これは小説ならではの表現なのです。
それをどう楽しむのか、藤尾をどう評価するのか、この小説
には多角的に楽しめるのです。