King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

『新書太閤記』について

2015年10月27日 14時38分11秒 | 読書
『新書太閤記』

今三巻目まで読みました。

最初何を今更という感じでダウンロードしてはいても
読んでいませんでしたが、丁度読むものがなくなって
読み始めたらこれが面白くてやめられなくなるという
そういう本でした。

今までいろんな人が新太閤記を書いており、そもそもの
物語とか歴史的な事実とか言い伝えはみななんとなく
頭にあるはずです。

それを新と銘打つからには何か新しい新機軸なり解釈
なりがあるのかという事ですが、私が読んだこの吉川英治
の作はやはり現代の視線と日本人の精神というものを
醸成するしくみになっていて読む人の共感を呼び起こす
構図になっているものと思います。

これは誰でも人生をある程度経てくると人としてとか
世の中とかに感じるものができてきてそれを人に改めて
示したいという欲求があるので、日本人の中で一番出世した
男の生涯においてそれを描き出してみたいと作家として
の腕が鳴るのでしょう。

まずこの一巻で気になるのはやはりなぜ秀吉は貧乏で
奉公も口ばかりで務まらずあちこち転々した男がなぜ
武士になり草履取から国を統べる太閤にまで出世した
のかということです。

一番有名な草履を尻に敷いたなというといえ懐にという
エピソードもこの本には出てきません。

懐に入れておくにしても泥の方を腹にしなければいい
のにと思えるこのエピソードはやはり後の人の創作なのか
とい思えてきます。


となると三日普請も峰須賀一族の登用とかも実情はどう
だったかという疑問も沸いてきます。

寧子との婚礼のシーンなどはその時代の人々の生態から
焼き直しであることは容易に想像できます。

当時の会社勤めの人が会社に忠誠して同僚とどうつきあい
いつもいき付けの飲み屋があり、何といってはそこに仲間と
集まりというのは当時の風情であり、現代また書くとすれば
また違ったものになるのでしょう。

ですから、この小説はあくまで小説として楽しむべきもの
で、これを読んだからといってどうして秀吉が天下をとったか
ということや彼のとった政策が後にどう影響したかという
検証には役立たないものと思います。

それなのにページが止まらない面白さがあるというのが
この作家の力量であり、昭和の激動とか元気だった時代を
も感じることができます。
コメント
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