King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

お気に入りで固めても

2014年11月02日 16時50分21秒 | 日々のこと
昨日の夕飯は私のお気に入りのものばかりを
食べました。

出かけた先の和食処で久しぶりにすっぽんやら
ドジョウなどを食べたのです。

ドジョウの柳川、ウナギのかば焼き、すっぽんの雑炊と
和食のなかでもメインとなる物ばかりをずらっと並べて
注文したのですが、出てきたものを見て少しがっかりし、
食べきってもまだお腹がいっぱいにならないという状況で
好きなものを食べても納得できない事態にこれは店の
せいなのか自分の飽食のせいなのかしばし悩むのでした。

物質文明の行きつく先とかそんなことまで考えだした
昨日の夜は人生の陥穽と躓きなどを考え続けるのでした。

くだらないたとえやつまらないものの良し悪しを考えて
それでも自分のより良いより強い満足度を求めるのは
そもそも憲法に保障された幸福追求の権利であると
いえますが、実際に人生においてその権利追及の意義と
可能性がどれほどまで実効性のあることなのかと身近な人の
人生の終末を看取ったことのある人なら潔く生きるとか、
自身の始末のことを考えるのです。

人の人生の質をどうこう言ったり、自身の身の処し方と
自らに許すセレモニーとそれがあと何回可能かという
ことまで思い至ればもうこれは完全に不眠の虜で、ただ
お気に入りの食事をしたのに満足できなかったことで
人生の深淵を覗くのでした。

実際、よかったこと残念だったことの多い少ないで幸福度
がどうこうなどと簡単なことではないことは二回の東京
オリンピックを見ることになる身には十分理解できています。

でも、大好物なものを食べたのに満足できなかったというのは
それだけ精神的なダメージは大きいのです。

そして、色々と外食して満足が得られない経験というのは
年々増えていく傾向にあるように感じます。

コスプレ紛いのユニホームを着たようなお店や凝ったインテリア
の店のようにコンセプトに重きを置いたり外観主体の集客の
店が多くなっているからでしょうか。

実は、近年味覚障害がある子供は三割にも上ると言われています。

そんな子供を育ててしまった大人と環境に問題があるのに
いつの間にかそれらも経済問題にすり替わっています。

それらある程度の収入があれば問題ないが、ある程度の格差は
あって当然で、それは能力差で差別されない方が不公平になるという
一見正当な格差容認で踏みつけにされるような人を増やしてしまった
という結果に通じるように思います。

この社会がつまりは自分たちの能力の限界を表す醜い姿に
なってしまっているのに羞恥心と美的感覚から拒否できる
気高さを人々は持つべきです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする