小デュマの自伝的小説「椿姫」の舞台化作品を、先週18日に県民ホールで見たのだけど。
その直後、地上波TV放映された、8年前の洋画「ムーラン・ルージュ」を家で見たら、そっちの方が、一種「椿姫」に似た所もあって、かつバレエの「椿姫」より、ずっとストレートに愛を謳い上げて、激感動的だった。
椿姫に似てると思ったのは、終盤で、高級娼婦のヒロインに、恋人の青年が、裏切られたと誤解して、札束を投げつけるシーンが、全くおなじだったから。
でも、恋愛劇としては、こちらの方が遥かに上出来だった。
かつてのパリのナイトクラブ、「ムーラン・ルージュ」。
金と権力ある男が遊侠し、貧しい美女たちが金で愛を売る夜の世界。
フレンチ・カンカンって、ロートレックの絵では、そんなにスカートを上までまくってないけど、この映画では、派手にスカートをまくって腰とスカートを振って踊る。フランス人って、Hだなあ。
「ばかになろう!」とか言って、フレンチカンカンのあほくさいダンスで盛り上がって、リズムにのって陽気に踊る冒頭のダンスシーンが前座。ナイトクラブのダンサーたちと男性客たちが盛り上がった所に、ナイトクラブのスター・サティーンが、皆の頭上でブランコを漕ぎながら華麗に登場する。
ニコール・キッドマンて、あんまり気にしてない女優だったんだけど、彼女の扮するサティーンが、どうしようもなく美しく魅力的。
美貌と均整のとれた肢体。男の好みに合わせて、恥らう乙女も陽気な娘も妖艶なタイプも演じられる高級娼婦。
ダンスも巧い。ほんとにいいパトロンを見つけて、ナイトクラブを出て本当の劇場の女優になればいいのにと思うような、クルチザンヌで終わるには惜しい花。
こういう役を演じる女優さんの美貌と姿態と演技力の前に、お金払って見たはずの、こないだの「椿姫」役のバレリーナが、色褪せてゆく。
バレエのと違って、この映画の恋愛は、本当に純でいちずで、そして若者らしい明るさや脳天気さもあって、共感をそそる。
ヒロインはどうしようもなく美しい。そしてクラブのショーで「ダイヤモンドは女のベストフレンド」歌い、金持ちの公爵と寝てパトロンを得て、女優になることしか考えていない。
貧しく美しく才能ある娘は、愛を金で売るのは当然と思っている様子で、それがまたさまになっている。カモになる男を誘惑するシーンの軽妙さが痛快だ。
こんなすれた考えの女性が、ちょっとした手違いをきっかけに、彼女の美しさの崇拝者の貧乏な作家志望の青年と、恋に落ちる。
全編を通じて流れる二人の心情を謳い上げた、二人の歌唱が素晴らしい説得力で、「すべてを乗り越える愛」を訴えてあまりある。
字で書くと、嘘っぽいんだけど。
時々ミュージカル仕立てで、歌も上手いから、愛が不可能を可能にするさまが、歌で伝わっちゃう感じで、ありがちなストーリーのはずなのに、要のシーンごとに、見るたびに泣ける。ぼろ泣きした。
最後は、二人の恋をベースにした劇の上演がムーラン・ルージュで上演され、オールスタンディングオベーションの興奮の中、幕の下りた舞台でヒロインは結核に倒れる。
慟哭する青年の胸の内で、真実の愛を得た聖なる娼婦は、一人残される青年を思いやりながら死んでゆく。女神のように、慰め励ます言葉を紡ぎながら。
「しっかり生きてね」「私たちの話を書いてね」と。
不滅の愛をテーマとした、素晴らしい作品になっていた。
対し、バレエのノイマイヤー版「椿姫」は、ヒロインは舞台劇の「マノン」に自分を重ね、不幸を着た女みたいで、自分は、あんまり共感できなかった。
マルグリットは、死のまぎわ、わが身を嘆き、手放したアルマンに会いたいと願いながら死んでいく。アルマンもまた、孤独のうちにくら~い雰囲気なんだけど。
なんだかこの二人、自分の不幸のことばかり考えていて、好きになれない。もちろん原作は違う、オペラも違う。ノイマイヤー版の設定が、私はあまり好きじゃない。
死の間際、男から金を巻き上げることしか考えていなかった娼婦のサティーンが、死の瞬間まで、命尽きる自分よりも、残される恋人を思いやり、生き残る男に役に立つ言葉をかける様は、優しさに溢れ、女神のようだった。
すれた娼婦っぷりも魅力的だったが、貧しく育ち、金のある男にしか見向かない、せちがらい人生を生きた利己的な乙女が、真実の愛を得て、死の瞬間にも自分より他者を思いやれる女性に変化している所も、胸を打つ。
死の瞬間に、愛を得た人生に感謝し、愛に満ち、自分より愛した男を想うサティーンの方が、自分の物語しか見ていないノイマイヤー版の「椿姫」マルグリットよりも、私には魅力的に見えた。
その直後、地上波TV放映された、8年前の洋画「ムーラン・ルージュ」を家で見たら、そっちの方が、一種「椿姫」に似た所もあって、かつバレエの「椿姫」より、ずっとストレートに愛を謳い上げて、激感動的だった。
椿姫に似てると思ったのは、終盤で、高級娼婦のヒロインに、恋人の青年が、裏切られたと誤解して、札束を投げつけるシーンが、全くおなじだったから。
でも、恋愛劇としては、こちらの方が遥かに上出来だった。
かつてのパリのナイトクラブ、「ムーラン・ルージュ」。
金と権力ある男が遊侠し、貧しい美女たちが金で愛を売る夜の世界。
フレンチ・カンカンって、ロートレックの絵では、そんなにスカートを上までまくってないけど、この映画では、派手にスカートをまくって腰とスカートを振って踊る。フランス人って、Hだなあ。
「ばかになろう!」とか言って、フレンチカンカンのあほくさいダンスで盛り上がって、リズムにのって陽気に踊る冒頭のダンスシーンが前座。ナイトクラブのダンサーたちと男性客たちが盛り上がった所に、ナイトクラブのスター・サティーンが、皆の頭上でブランコを漕ぎながら華麗に登場する。
ニコール・キッドマンて、あんまり気にしてない女優だったんだけど、彼女の扮するサティーンが、どうしようもなく美しく魅力的。
美貌と均整のとれた肢体。男の好みに合わせて、恥らう乙女も陽気な娘も妖艶なタイプも演じられる高級娼婦。
ダンスも巧い。ほんとにいいパトロンを見つけて、ナイトクラブを出て本当の劇場の女優になればいいのにと思うような、クルチザンヌで終わるには惜しい花。
こういう役を演じる女優さんの美貌と姿態と演技力の前に、お金払って見たはずの、こないだの「椿姫」役のバレリーナが、色褪せてゆく。
バレエのと違って、この映画の恋愛は、本当に純でいちずで、そして若者らしい明るさや脳天気さもあって、共感をそそる。
ヒロインはどうしようもなく美しい。そしてクラブのショーで「ダイヤモンドは女のベストフレンド」歌い、金持ちの公爵と寝てパトロンを得て、女優になることしか考えていない。
貧しく美しく才能ある娘は、愛を金で売るのは当然と思っている様子で、それがまたさまになっている。カモになる男を誘惑するシーンの軽妙さが痛快だ。
こんなすれた考えの女性が、ちょっとした手違いをきっかけに、彼女の美しさの崇拝者の貧乏な作家志望の青年と、恋に落ちる。
全編を通じて流れる二人の心情を謳い上げた、二人の歌唱が素晴らしい説得力で、「すべてを乗り越える愛」を訴えてあまりある。
字で書くと、嘘っぽいんだけど。
時々ミュージカル仕立てで、歌も上手いから、愛が不可能を可能にするさまが、歌で伝わっちゃう感じで、ありがちなストーリーのはずなのに、要のシーンごとに、見るたびに泣ける。ぼろ泣きした。
最後は、二人の恋をベースにした劇の上演がムーラン・ルージュで上演され、オールスタンディングオベーションの興奮の中、幕の下りた舞台でヒロインは結核に倒れる。
慟哭する青年の胸の内で、真実の愛を得た聖なる娼婦は、一人残される青年を思いやりながら死んでゆく。女神のように、慰め励ます言葉を紡ぎながら。
「しっかり生きてね」「私たちの話を書いてね」と。
不滅の愛をテーマとした、素晴らしい作品になっていた。
対し、バレエのノイマイヤー版「椿姫」は、ヒロインは舞台劇の「マノン」に自分を重ね、不幸を着た女みたいで、自分は、あんまり共感できなかった。
マルグリットは、死のまぎわ、わが身を嘆き、手放したアルマンに会いたいと願いながら死んでいく。アルマンもまた、孤独のうちにくら~い雰囲気なんだけど。
なんだかこの二人、自分の不幸のことばかり考えていて、好きになれない。もちろん原作は違う、オペラも違う。ノイマイヤー版の設定が、私はあまり好きじゃない。
死の間際、男から金を巻き上げることしか考えていなかった娼婦のサティーンが、死の瞬間まで、命尽きる自分よりも、残される恋人を思いやり、生き残る男に役に立つ言葉をかける様は、優しさに溢れ、女神のようだった。
すれた娼婦っぷりも魅力的だったが、貧しく育ち、金のある男にしか見向かない、せちがらい人生を生きた利己的な乙女が、真実の愛を得て、死の瞬間にも自分より他者を思いやれる女性に変化している所も、胸を打つ。
死の瞬間に、愛を得た人生に感謝し、愛に満ち、自分より愛した男を想うサティーンの方が、自分の物語しか見ていないノイマイヤー版の「椿姫」マルグリットよりも、私には魅力的に見えた。