(ぼけ~ぼけぼけ~♪♪
カメの事務所では、緑の葉を放射状に重なるように広げた植物が
数鉢並んでいる。話が一段落して気持ちが落ち着いた来客が
それに気づいて、ちらちらと眺める。
珍しいのである。アエオニウムという。
最初の一株はミニ観葉植物が三個セットになったうちの一つで
背丈10センチあるかないかくらいのチビちゃんであった。
アエオニウム(属)という名はとっくに忘れていたので、今回調べた。
いくつか種類がある中のカナリエンシスというものだった。
他に黒法師(サンシモン)という名の日光にあたると葉が黒くなる
(紫がかった黒)のや、いくつもあり多肉植物好きはけっこういて、
マニアックな人気があるようだ。初めて知ったことである。
カメは名前とか人気とかには全く興味を示さない方なのだが、数年前に
先生の机の上にとわたしが届けたミニサイズの三点セットを枯らさない
ようにと大事に育てておられたわけである。
大事にというか、枯らさないのは先生にはあたりまえのことで、増えた
理由はその性質がおもしろいからと、いつのまにか株が増えてしまった
ということらしい。わたし自身はソレがあのチビちゃんだとは気づかず
ただ、あれ~増えましたねと眺めていただけだ。
50センチを超え、横に枝を張り出し、樹皮と同じ色の糸が降りてきて、
それが地中に根を張り、しだいに太く丈夫になり幹全体を支え持つように
なった。それには、やややと驚いた。
生きているなコイツと興味がそそられる。
生きているのは当然のことなのだが、生きていると感じさせる勢いが
あるのだった。不思議なのだった。生命の経過…。
カメのオフィスは昔からテラスも室内も緑が多い。
室内には花が活けられているが、キレイな新しい花がいつもという
ことではない。
枯れたら捨ててしまう、処分するという片づけられ方はされない。
枯れたまま、しばらくあったりする。
ある時、片づけようとしたら、そのままでと言われたことがあった。
枯れたと思うのは花の盛りを愛でる気持ちが強いからで、花の形
しか見ていなかったからだった。
生きてそこにいるとは思わないのであった。そのままで、と言われて
そのことに気づいて、それからはよけいなことはしなくなった。
先生が自分で片づけたり、植木鉢へ挿し木されたりして余生が
続くものがある。余生どころか地植えになって盛んに枝葉をつけ
いっちょまえに家族を増やしている猛者もいるのである。
先生の部屋は地ツ神のはたらきが充満していて生きものが喜ぶ、
いつからかそう気づいて、ダメにした植木鉢をそっと置いてきたことが
ある。ほれ、こんなになったから持って帰れば、と言われるまでだ。
シェルターに避難させ、わたしの(たぶん)毒気から解放した。
しばらくして、めきめきと力がついて美しくなった。けれど、ひきとって
持ち帰るのに躊ちょする。病む以前より増して活気づいているのを
見ると、この子はうちに来て苦労するかもしらん、と一抹の不安が
よぎるからである。
地ツ神の「神」はハタラキという意味なのだが、神という言葉に
変なアレルギーがある人のために別な言い方をあえてすれば
命の源とでもいえばいいだろうか。
尊ぶ気持ちがあればアレルギーなど持たず自然にカミは神と言える
のではなかろうかとも思うが…
残念なことに、戦後のこのかた、人々の感性は根底から捻じれて、
日本人的な魂の消息は途絶えつつある。即物的なものの見方が
増長し、表紙を新しくつけかえた野蛮がはびこっているから。
動植物は命の源に忠実に生きている。
そのハタラキは響きとして伝わる。妨げられない場所であれば、
すくすくと育つことができる。
前人未到のジャングルなど未開の地は自然のエネルギーが溢れ
ている。エネルギーと人が呼んでいるのは命のひびきだ。
そこにないのは人間の邪悪さである。
ハタラキを邪魔し、妨げているのは人間であって、それ以外の
生きものは自然の流れに乗って存在する。
流れを変えてしまうのも人間である。
弱い種は弱いなりに生きる術を身につける。
強いものだけが生き残るともかぎらない。
イノチは流れに乗って生まれ、育ちそして源へ還る。命の数だけ生の
形があり、そこに是非も善悪もない。
神は天津神、そして地津神、八百万の神と呼称があり、段階的に
ハタラキが降り伝わる。
天津神ほどご利益があるとおもいがちだが、それは人の勝手な
思い込みに過ぎず、神のハタラキは人の利害など無縁なのだ。
在るべきようにあるのみなのだから、ハタラキの質と意味を知る
ほうが大事である。
地津神は人にもっとも身近で、その中に肉体ごと生きている。
日の光や空気を意識しないまま恩恵にあずかり、とくにありがたい
とも思わない日常にあっては神に出会うことは難しい。
出会うもなにも、そこここにあるハタラキで人は息をし、それなしに
生きてはいけない。
だのに気づかぬ人間の愚かさが、命本来のひびきの妨げとなっている。
犬と暮らし、それと知らないまま地神のひびきにどっぷりと甘えていた。
そこにいると妄想は無用で、子どものように素直さを取り戻せた。
それが身について、犬が神さまのところへかえり姿を消してからも
ひびきを見つけることができる。
先生の部屋のアエオニウムの笑声やおしゃべりがときおり耳を
かすめる。
仁と智と義と礼と一つになった信、その本来の姿のまま、神が
人の形をとっているところでなら生き物はすべからく、命を謳歌し、
文字通り歌をうたう。
寿ぎの歌。
(ちなみに、アエオニウムは夏が休眠期で、猛暑と酷寒に弱い
とのことです。 もらってきた孫がそろりそろりと育ってます。)
カメの事務所では、緑の葉を放射状に重なるように広げた植物が
数鉢並んでいる。話が一段落して気持ちが落ち着いた来客が
それに気づいて、ちらちらと眺める。
珍しいのである。アエオニウムという。
最初の一株はミニ観葉植物が三個セットになったうちの一つで
背丈10センチあるかないかくらいのチビちゃんであった。
アエオニウム(属)という名はとっくに忘れていたので、今回調べた。
いくつか種類がある中のカナリエンシスというものだった。
他に黒法師(サンシモン)という名の日光にあたると葉が黒くなる
(紫がかった黒)のや、いくつもあり多肉植物好きはけっこういて、
マニアックな人気があるようだ。初めて知ったことである。
カメは名前とか人気とかには全く興味を示さない方なのだが、数年前に
先生の机の上にとわたしが届けたミニサイズの三点セットを枯らさない
ようにと大事に育てておられたわけである。
大事にというか、枯らさないのは先生にはあたりまえのことで、増えた
理由はその性質がおもしろいからと、いつのまにか株が増えてしまった
ということらしい。わたし自身はソレがあのチビちゃんだとは気づかず
ただ、あれ~増えましたねと眺めていただけだ。
50センチを超え、横に枝を張り出し、樹皮と同じ色の糸が降りてきて、
それが地中に根を張り、しだいに太く丈夫になり幹全体を支え持つように
なった。それには、やややと驚いた。
生きているなコイツと興味がそそられる。
生きているのは当然のことなのだが、生きていると感じさせる勢いが
あるのだった。不思議なのだった。生命の経過…。
カメのオフィスは昔からテラスも室内も緑が多い。
室内には花が活けられているが、キレイな新しい花がいつもという
ことではない。
枯れたら捨ててしまう、処分するという片づけられ方はされない。
枯れたまま、しばらくあったりする。
ある時、片づけようとしたら、そのままでと言われたことがあった。
枯れたと思うのは花の盛りを愛でる気持ちが強いからで、花の形
しか見ていなかったからだった。
生きてそこにいるとは思わないのであった。そのままで、と言われて
そのことに気づいて、それからはよけいなことはしなくなった。
先生が自分で片づけたり、植木鉢へ挿し木されたりして余生が
続くものがある。余生どころか地植えになって盛んに枝葉をつけ
いっちょまえに家族を増やしている猛者もいるのである。
先生の部屋は地ツ神のはたらきが充満していて生きものが喜ぶ、
いつからかそう気づいて、ダメにした植木鉢をそっと置いてきたことが
ある。ほれ、こんなになったから持って帰れば、と言われるまでだ。
シェルターに避難させ、わたしの(たぶん)毒気から解放した。
しばらくして、めきめきと力がついて美しくなった。けれど、ひきとって
持ち帰るのに躊ちょする。病む以前より増して活気づいているのを
見ると、この子はうちに来て苦労するかもしらん、と一抹の不安が
よぎるからである。
地ツ神の「神」はハタラキという意味なのだが、神という言葉に
変なアレルギーがある人のために別な言い方をあえてすれば
命の源とでもいえばいいだろうか。
尊ぶ気持ちがあればアレルギーなど持たず自然にカミは神と言える
のではなかろうかとも思うが…
残念なことに、戦後のこのかた、人々の感性は根底から捻じれて、
日本人的な魂の消息は途絶えつつある。即物的なものの見方が
増長し、表紙を新しくつけかえた野蛮がはびこっているから。
動植物は命の源に忠実に生きている。
そのハタラキは響きとして伝わる。妨げられない場所であれば、
すくすくと育つことができる。
前人未到のジャングルなど未開の地は自然のエネルギーが溢れ
ている。エネルギーと人が呼んでいるのは命のひびきだ。
そこにないのは人間の邪悪さである。
ハタラキを邪魔し、妨げているのは人間であって、それ以外の
生きものは自然の流れに乗って存在する。
流れを変えてしまうのも人間である。
弱い種は弱いなりに生きる術を身につける。
強いものだけが生き残るともかぎらない。
イノチは流れに乗って生まれ、育ちそして源へ還る。命の数だけ生の
形があり、そこに是非も善悪もない。
神は天津神、そして地津神、八百万の神と呼称があり、段階的に
ハタラキが降り伝わる。
天津神ほどご利益があるとおもいがちだが、それは人の勝手な
思い込みに過ぎず、神のハタラキは人の利害など無縁なのだ。
在るべきようにあるのみなのだから、ハタラキの質と意味を知る
ほうが大事である。
地津神は人にもっとも身近で、その中に肉体ごと生きている。
日の光や空気を意識しないまま恩恵にあずかり、とくにありがたい
とも思わない日常にあっては神に出会うことは難しい。
出会うもなにも、そこここにあるハタラキで人は息をし、それなしに
生きてはいけない。
だのに気づかぬ人間の愚かさが、命本来のひびきの妨げとなっている。
犬と暮らし、それと知らないまま地神のひびきにどっぷりと甘えていた。
そこにいると妄想は無用で、子どものように素直さを取り戻せた。
それが身について、犬が神さまのところへかえり姿を消してからも
ひびきを見つけることができる。
先生の部屋のアエオニウムの笑声やおしゃべりがときおり耳を
かすめる。
仁と智と義と礼と一つになった信、その本来の姿のまま、神が
人の形をとっているところでなら生き物はすべからく、命を謳歌し、
文字通り歌をうたう。
寿ぎの歌。
(ちなみに、アエオニウムは夏が休眠期で、猛暑と酷寒に弱い
とのことです。 もらってきた孫がそろりそろりと育ってます。)