算数がどうにか少しわかる程度の頭である。
数学など縁遠い。
聞いたところ、数学とは高等になればなるほど哲学に近い
ものらしい。
ならばうさこにもわからんはずはないと思ったりして、
数学の本を何冊も手に入れたけれど、あいかわらず算数に
手をやく始末‥哲学書はいくらでもするすると読めるけれど
数学書はどうも前へと進めないでツンドク本になっている。
詩を読むのを高等数学を解くのに喩えたのは茨木のり子、
「人の詩集を読むことはたいがいが苦渋に満ちた作業だ。
眉間に皺をよせ、頭痛なんぞも起こり、まるで高等数学を
解くような緊張を強いられる」(「言の葉2」茨木のり子著)
だそうだ。
他人の詩を読む行為は書いた人の思考と感情の跡を丹念に
辿ることで、そのうえ理解して共感しようとすることである。
確かに書かれている通り、簡単なことではない。
簡単に解る、つまり解りやすいと思って読んでいる時、
果たして解っているかどうか、怪しかったりもするし。
詩、つまり他人の心を理解することは高等数学の世界であると
思っていれば、あなどって安易にわかったつもり知ってるつもり
にはなりようがないし、おのずと身勝手もつつしまれるだろう。
先の一文にふとそんなことを思った。
わからんなあ、で始めて正解で、解ってると思うことは傲慢では
ないか、と思う。解ろうと努めて寄り添うこと、それがギリギリの
線で許されているのではなかろうか。
世の中とは秘めごとをたくさん抱えた人が寄り合って生きている。
算数だけで生きているとけつまずくので、うさこは古典文学を学んだ。
ところが古典、古伝書とつきつめていったら、そこにも数の世界があった。
嗚呼嗚呼、と再びけつまづいた。
そこで与えられた杖は、五常五行という初心者への手引きのような教えで
あった。杖の使い方はつきつめれば深い。
けれど杖は杖である。入りやすくじわじわと沁みてわかってきたのであった。
今も高等数学は知らないが、古伝の旧事本紀の数魂はそんなに難しい事
ではなくなった。むしろ、その杖と道なくして生きてはいけないくらいだ。
算数、勘定が苦手なわたしにとっては。
世界を表す「学」を数と言葉で知っていく日々、少しついた智慧で、ぼちぼち
と歩く。最近はよく涙を流す。涙はまだ涸れず、乾いては流れる。
知ることは悲しきこと、でもあると知らされる。
親分は日向散歩で、足よろよろ。彼はけっこう智慧者です。
数学など縁遠い。
聞いたところ、数学とは高等になればなるほど哲学に近い
ものらしい。
ならばうさこにもわからんはずはないと思ったりして、
数学の本を何冊も手に入れたけれど、あいかわらず算数に
手をやく始末‥哲学書はいくらでもするすると読めるけれど
数学書はどうも前へと進めないでツンドク本になっている。
詩を読むのを高等数学を解くのに喩えたのは茨木のり子、
「人の詩集を読むことはたいがいが苦渋に満ちた作業だ。
眉間に皺をよせ、頭痛なんぞも起こり、まるで高等数学を
解くような緊張を強いられる」(「言の葉2」茨木のり子著)
だそうだ。
他人の詩を読む行為は書いた人の思考と感情の跡を丹念に
辿ることで、そのうえ理解して共感しようとすることである。
確かに書かれている通り、簡単なことではない。
簡単に解る、つまり解りやすいと思って読んでいる時、
果たして解っているかどうか、怪しかったりもするし。
詩、つまり他人の心を理解することは高等数学の世界であると
思っていれば、あなどって安易にわかったつもり知ってるつもり
にはなりようがないし、おのずと身勝手もつつしまれるだろう。
先の一文にふとそんなことを思った。
わからんなあ、で始めて正解で、解ってると思うことは傲慢では
ないか、と思う。解ろうと努めて寄り添うこと、それがギリギリの
線で許されているのではなかろうか。
世の中とは秘めごとをたくさん抱えた人が寄り合って生きている。
算数だけで生きているとけつまずくので、うさこは古典文学を学んだ。
ところが古典、古伝書とつきつめていったら、そこにも数の世界があった。
嗚呼嗚呼、と再びけつまづいた。
そこで与えられた杖は、五常五行という初心者への手引きのような教えで
あった。杖の使い方はつきつめれば深い。
けれど杖は杖である。入りやすくじわじわと沁みてわかってきたのであった。
今も高等数学は知らないが、古伝の旧事本紀の数魂はそんなに難しい事
ではなくなった。むしろ、その杖と道なくして生きてはいけないくらいだ。
算数、勘定が苦手なわたしにとっては。
世界を表す「学」を数と言葉で知っていく日々、少しついた智慧で、ぼちぼち
と歩く。最近はよく涙を流す。涙はまだ涸れず、乾いては流れる。
知ることは悲しきこと、でもあると知らされる。
親分は日向散歩で、足よろよろ。彼はけっこう智慧者です。