勤労感謝の日、祝日と日曜日が重なったのでおまけしてもらった
ラッキーな月曜日となってしまった連休、昨日はただの日曜ではなく
新嘗祭を行う日でした。
いまやただの休日となって日本全国津々浦々、行楽客が大移動中のもよう。
夕方の幹線道路、高層道路は渋滞必至、それでもおでかけするんだな。
それは働き過ぎを労うため、つまりふだん勤労してるからね、と勝手な
解釈をしている人はオオマチガイです。いるか? そんなの‥‥
新嘗祭では民主主義の新憲法に反すると考えて、どうにかひねり出した
勤労感謝って名称なんでしょうね。でも本来は、五穀の豊穣、収穫を
天地の神々に感謝する日だったわけで、自分にご苦労さんの日ではない。
ずるずるすべって外してます。時代とともに入れ替わって、本来の意味など
消えていくのでしょう。
知ったかぶりするわけではないよ。
新嘗祭ニイナメサイって打ち込めば、ぱっとウィキペディアとかで意味を
知れるネット社会。誰でもかる~くは知っていて、知ったつもりです。
だから、知ったかぶりするわけではないよ。(二度言ったねえ)
先代旧事本紀七十二巻本の第五巻は、神祇本紀。
天照太神とスサノオの争いの話を中心にその周辺の神ハタラキも含めて語ら
れていて、旧事の第二の核にあたる巻です。
その中に地食保媛神(くにつみけもちひめのかみ)が登場します。
これが新嘗祭の主神、五穀豊穣をつかさどる神。
え~っとあの、白狐さまですね。化けてますね、化けるには理由があって
その理由が神祇本紀に語られています。
「山城國の飯成山にまします、大神は天下の狐を使いて富をつかさどり
よく災いを祓い、邪魔者を伏しておさめるなり。」
ということで、それを秦氏が祀ったのが伏見稲荷の起源です。
山城國というのは京都府南部地域にあたります。
その山城の國造(くにつくり、くにのみやつこ)は、
「天八意命(あめのやごころのみこと)の孫 天星照命(あめのほてるの
みこと)をもって国造とさだめたまう。天照太神は民をおさめる法を
天思兼命にさずけ、今、天星照命に代々の王師(ひじり)として奉るなり」
と書かれているのは、とても興味深いことです。
天思兼命 →→ 天八意命 →→ 天星照命 とつながるハタラキの國に
五穀豊穣をつかさどる神が白狐さまとして降り立った。
秋、一年分の人々の命を養う五穀が実り、もろもろの富は五穀に育まれる命
あってのこと。よって人は豊かな恵みに感謝することから始まらねばならない
となり、ここから全国にお狐さまが飛び散って大小の稲荷神社が見張り番
をして感謝せよ、励めよ、ひいては商売繁盛、家内安全と伝わってきたわけですね。
神のハタラキが一番人に近い形でハタライて結果が目に見える形となるのが
五穀豊穣、末端の神ハタラキのお稲荷さん。
人の世にとって、ニイナメサイは大変重要な神事、原点のお祭りなんです。
「おいらやあたいもよく働いたわよ」って言い分もあるでしょうが、
働かせていただいいてありがとうございます、ってほうが正しいでしょうね。
エコエコってエコ流行の今日び、こういうことを知っておくと
循環する環境の中の人間という位置づけも、よくわかるのではないかと
思ううさこであります。
すこしだけ新境地、来年の収穫を祈って準備中、Nつよし君‥
追記:
新嘗祭などの神事の意味を薄くしたのは最近のことではありません。
大化の改新(646)の時代には国造制度も廃止していったのだから、
古代からの神事の意味が薄れ同時に感謝もうすれ、神事抜きの政治に
変えてはや1300余年がたちました。
政教分離で、文化の根っこがわからなくなって、意味が消えて、形だけ
残って、意味も変えられてしまうので、なにがなんだかわかんない、
こんなのつまんない、となってうもれていった古神道の世界。
古事記日本書紀を読んでもピンとくるでもないし、形骸化はなはだし。
形を消して精神をのこせばよかったのにね。その逆をやってきたわけで
残ったのは勘違いの右翼的神社参りや商売繁盛の神社詣でばかり。
神道の世界と無関係ですから、あんラッキーマンデー、おつかれさんです。
ラッキーな月曜日となってしまった連休、昨日はただの日曜ではなく
新嘗祭を行う日でした。
いまやただの休日となって日本全国津々浦々、行楽客が大移動中のもよう。
夕方の幹線道路、高層道路は渋滞必至、それでもおでかけするんだな。
それは働き過ぎを労うため、つまりふだん勤労してるからね、と勝手な
解釈をしている人はオオマチガイです。いるか? そんなの‥‥
新嘗祭では民主主義の新憲法に反すると考えて、どうにかひねり出した
勤労感謝って名称なんでしょうね。でも本来は、五穀の豊穣、収穫を
天地の神々に感謝する日だったわけで、自分にご苦労さんの日ではない。
ずるずるすべって外してます。時代とともに入れ替わって、本来の意味など
消えていくのでしょう。
知ったかぶりするわけではないよ。
新嘗祭ニイナメサイって打ち込めば、ぱっとウィキペディアとかで意味を
知れるネット社会。誰でもかる~くは知っていて、知ったつもりです。
だから、知ったかぶりするわけではないよ。(二度言ったねえ)
先代旧事本紀七十二巻本の第五巻は、神祇本紀。
天照太神とスサノオの争いの話を中心にその周辺の神ハタラキも含めて語ら
れていて、旧事の第二の核にあたる巻です。
その中に地食保媛神(くにつみけもちひめのかみ)が登場します。
これが新嘗祭の主神、五穀豊穣をつかさどる神。
え~っとあの、白狐さまですね。化けてますね、化けるには理由があって
その理由が神祇本紀に語られています。
「山城國の飯成山にまします、大神は天下の狐を使いて富をつかさどり
よく災いを祓い、邪魔者を伏しておさめるなり。」
ということで、それを秦氏が祀ったのが伏見稲荷の起源です。
山城國というのは京都府南部地域にあたります。
その山城の國造(くにつくり、くにのみやつこ)は、
「天八意命(あめのやごころのみこと)の孫 天星照命(あめのほてるの
みこと)をもって国造とさだめたまう。天照太神は民をおさめる法を
天思兼命にさずけ、今、天星照命に代々の王師(ひじり)として奉るなり」
と書かれているのは、とても興味深いことです。
天思兼命 →→ 天八意命 →→ 天星照命 とつながるハタラキの國に
五穀豊穣をつかさどる神が白狐さまとして降り立った。
秋、一年分の人々の命を養う五穀が実り、もろもろの富は五穀に育まれる命
あってのこと。よって人は豊かな恵みに感謝することから始まらねばならない
となり、ここから全国にお狐さまが飛び散って大小の稲荷神社が見張り番
をして感謝せよ、励めよ、ひいては商売繁盛、家内安全と伝わってきたわけですね。
神のハタラキが一番人に近い形でハタライて結果が目に見える形となるのが
五穀豊穣、末端の神ハタラキのお稲荷さん。
人の世にとって、ニイナメサイは大変重要な神事、原点のお祭りなんです。
「おいらやあたいもよく働いたわよ」って言い分もあるでしょうが、
働かせていただいいてありがとうございます、ってほうが正しいでしょうね。
エコエコってエコ流行の今日び、こういうことを知っておくと
循環する環境の中の人間という位置づけも、よくわかるのではないかと
思ううさこであります。
すこしだけ新境地、来年の収穫を祈って準備中、Nつよし君‥
追記:
新嘗祭などの神事の意味を薄くしたのは最近のことではありません。
大化の改新(646)の時代には国造制度も廃止していったのだから、
古代からの神事の意味が薄れ同時に感謝もうすれ、神事抜きの政治に
変えてはや1300余年がたちました。
政教分離で、文化の根っこがわからなくなって、意味が消えて、形だけ
残って、意味も変えられてしまうので、なにがなんだかわかんない、
こんなのつまんない、となってうもれていった古神道の世界。
古事記日本書紀を読んでもピンとくるでもないし、形骸化はなはだし。
形を消して精神をのこせばよかったのにね。その逆をやってきたわけで
残ったのは勘違いの右翼的神社参りや商売繁盛の神社詣でばかり。
神道の世界と無関係ですから、あんラッキーマンデー、おつかれさんです。