おはようございます。
少しの言葉が心に届く、普段なら聞き流す聞き慣れた、
ありがとうもおはようも今は一つ一つくっきりと聴こえる。
そういうときに書く一行はとても難しく、誤解や勘違い
を招かないようにと気をつけてはいますが、神話を引用
するのはこの国では多分に誤解の方へと傾きがちなのです。
国家神道の戦争利用というそう遠くない記憶もその理由
の一つではありますが。
天罰発言がこの震災で二度問題になったのも、使う側と
聞く側のズレと思惑違いから言葉尻がとらえられ、攻撃
の的とされるからです。
攻められると謝らなくてもいいものまで説明もせずに謝
ったり、言えば恥にしかならないことを口を滑らせたり
です。「天」にまつわる無神経さは嘆かわしいばかりです。
しかし解釈のあいまいさはわが国だけのことではありません。
キリスト教の国々において聖書にある「天」が都合よく
意味不明に使われ現代に至ってなおさらそうだというのを、
誰も質したりしないまま放っておかれ、時には都合よく
政治に利用されるというのはわが国と同じです。
カメに教わってきた旧事の神話は詳細がありそして厳密
なものです。
曖昧模糊とした物語ではないのでわかりやすい方ですが、
それでも行間を読み察することをせず文字通りに読むと
どっちサイド?と思うかもしれないんですね。
ウィキペディアなどで調べたら意味はズレると思います。
簡単に説明するしかないのがネット事情ですし、神話は
読めばわかるというものでもないですね。
考え、感じる余白が大切です。
うさぎはいつも短絡的で軽率に描かれます、そして痛い
目にあって改心する、この改心は文字通りの改めるでは
なく、もともと備わっていた心を取り戻すわけです。
鰐にしても同じ、兄神たちにしても同様で、悪意(利害)
を以て事を成就させることはできないという教えでもあります。
「神といえども理に沿わねば成らず」つまり理を諭す章
です。単純な勧善懲悪で解釈するのは浅いかと思います。
(理は五鎮の一つである「理」です)
そして、風の谷のうさこはちっぽけな人間なのであります。
けれど親に産んでもらったときから命(みこと)もそこへ
合流してちっぽけなうさこと共にあります。
人はすべからく皆そうである、カメに教わった希望とは
そのことでした。
このことを知ると知らないでは人生がまったく違っていた
わけです。愚か者のまま生きていたか死んでしまったかも
わからない、後者の方であったろうと思います。
逆戻りしたくない気持ちに後押しされて学んできました。
ただのうさこさんじゃないと言われましたが、いやいや、
ただのうさこで、ただの非力なうさこであります。
だから命の不思議を知ることができる、そう思います。
耳を澄ますことがなによりも大事かと思います。
おはよう、と言える一日一日。
新しい一日。
おはようと言えることがこんなに嬉しい
君が 目の前にいて ブンブンと尻尾を振っている。
ああ、君も毎日 うれしいんだね。
君は いつも常世の住人なのだね。