想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

野の仏、山の神

2009-02-14 12:49:02 | Weblog
  (たまには笑顔をありがとう、親分さん。
     カメラを向けるといつもすまし顔になっちゃうから)

  本日、晴天なれど風強し。

  ゆうべの雨でゆるんだ土の上に、もう雪はない。
  ほとんど融けた雪は氷水になり、低いところへ流れていく。
  雪の下にあった茶色い落ち葉が透きとおった水たまりに浮かび、
  その周囲を乾いた落ち葉がくるくると舞い、また落ちる。
  風の音を聞き、風の創る景色を見ている。

  この風の音に今では慣れたけれど、ここから十数キロくらい下
  の里村の人も、この音を知らないらしい。たまにやってきて、
  恐れをなしたり、よく住むなあとあきれたりしている。
  もっと北、たとえば地吹雪で有名な庄内や宮沢賢治の岩手など
  まで行けばあたりまえのことかもしれないが。

  屋内で眼を閉じ、風のうなりだけを聞いていると真冬の嵐のよう
  だが、どうやら春のまえぶれの大風らしい。
  東京で仕事中のねずみ師からの電話によると、とても暖かくて
  車の窓を開けて走ったそうだから。

  照っても翳っても、この場所にいると静かな気持ちを取り戻せる。
  ある時、京都太秦の広隆寺で仏像を見た。
仕事の帰り道ふと思いたち近くだからというついでのことだった。
  仏像は暗がりのなかに横一列に並んで在った。
  そのときわたしはとても疲れていたのかもしれないが、よくお顔
  の見えない仏さまに、ふれたような気がしたものだった。
  東京の国立博物館にはこの春にも国宝級の仏像が展示される。
        (興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」3.31~)
  大勢の人が観にいくだろうけれど、管理の行き届いたガラスケース
  の中をのぞいて何を見ることができるだろうか。一度実物を見た
  いという気持ちはわからなくもないけれど、見るは観るではない。
  仏は「観」なのだから。そうでなければわからない。

  仏像をたくさん見て歩いた20代の頃、その多くを博物館などでは
  なく、その仏さまのそもそもの由緒ある場へでかけたものだった。
  出張なさった仏さまは、仏像になっているので感じることも想う
  こともできなかった。だから立派すぎる宝物殿にある仏像はもう
  見ない。疲れるだけだからである、うさこの場合。

  野に仏、と昔の人が言った。
  野の仏、とうさこは思う。
  ここで嵐の音のなかに、ゆるんだ土の上に、仏を見ている。
  そして、遠くはるかに、山の神を思う。

  日本は四季のある地、その意味するところは深い。
  これが木の一本もない赤い砂と岩の大地だったら、もっと心は
  尖り、もっと悲しみは深くなったことだろう。
  四季がめぐり、凍ったこころをほぐし、ふたたび芽吹いてくる
  命を享受して、素直に生きよ、素直に在れと教えてくれる。

  眼の前にあることをおこたりなくやること。
  高望みも、ないものねだりも、風が吹き飛ばしてくれる。


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