(たまには笑顔をありがとう、親分さん。
カメラを向けるといつもすまし顔になっちゃうから)
本日、晴天なれど風強し。
ゆうべの雨でゆるんだ土の上に、もう雪はない。
ほとんど融けた雪は氷水になり、低いところへ流れていく。
雪の下にあった茶色い落ち葉が透きとおった水たまりに浮かび、
その周囲を乾いた落ち葉がくるくると舞い、また落ちる。
風の音を聞き、風の創る景色を見ている。
この風の音に今では慣れたけれど、ここから十数キロくらい下
の里村の人も、この音を知らないらしい。たまにやってきて、
恐れをなしたり、よく住むなあとあきれたりしている。
もっと北、たとえば地吹雪で有名な庄内や宮沢賢治の岩手など
まで行けばあたりまえのことかもしれないが。
屋内で眼を閉じ、風のうなりだけを聞いていると真冬の嵐のよう
だが、どうやら春のまえぶれの大風らしい。
東京で仕事中のねずみ師からの電話によると、とても暖かくて
車の窓を開けて走ったそうだから。
照っても翳っても、この場所にいると静かな気持ちを取り戻せる。
ある時、京都太秦の広隆寺で仏像を見た。
仕事の帰り道ふと思いたち近くだからというついでのことだった。
仏像は暗がりのなかに横一列に並んで在った。
そのときわたしはとても疲れていたのかもしれないが、よくお顔
の見えない仏さまに、ふれたような気がしたものだった。
東京の国立博物館にはこの春にも国宝級の仏像が展示される。
(興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」3.31~)
大勢の人が観にいくだろうけれど、管理の行き届いたガラスケース
の中をのぞいて何を見ることができるだろうか。一度実物を見た
いという気持ちはわからなくもないけれど、見るは観るではない。
仏は「観」なのだから。そうでなければわからない。
仏像をたくさん見て歩いた20代の頃、その多くを博物館などでは
なく、その仏さまのそもそもの由緒ある場へでかけたものだった。
出張なさった仏さまは、仏像になっているので感じることも想う
こともできなかった。だから立派すぎる宝物殿にある仏像はもう
見ない。疲れるだけだからである、うさこの場合。
野に仏、と昔の人が言った。
野の仏、とうさこは思う。
ここで嵐の音のなかに、ゆるんだ土の上に、仏を見ている。
そして、遠くはるかに、山の神を思う。
日本は四季のある地、その意味するところは深い。
これが木の一本もない赤い砂と岩の大地だったら、もっと心は
尖り、もっと悲しみは深くなったことだろう。
四季がめぐり、凍ったこころをほぐし、ふたたび芽吹いてくる
命を享受して、素直に生きよ、素直に在れと教えてくれる。
眼の前にあることをおこたりなくやること。
高望みも、ないものねだりも、風が吹き飛ばしてくれる。
カメラを向けるといつもすまし顔になっちゃうから)
本日、晴天なれど風強し。
ゆうべの雨でゆるんだ土の上に、もう雪はない。
ほとんど融けた雪は氷水になり、低いところへ流れていく。
雪の下にあった茶色い落ち葉が透きとおった水たまりに浮かび、
その周囲を乾いた落ち葉がくるくると舞い、また落ちる。
風の音を聞き、風の創る景色を見ている。
この風の音に今では慣れたけれど、ここから十数キロくらい下
の里村の人も、この音を知らないらしい。たまにやってきて、
恐れをなしたり、よく住むなあとあきれたりしている。
もっと北、たとえば地吹雪で有名な庄内や宮沢賢治の岩手など
まで行けばあたりまえのことかもしれないが。
屋内で眼を閉じ、風のうなりだけを聞いていると真冬の嵐のよう
だが、どうやら春のまえぶれの大風らしい。
東京で仕事中のねずみ師からの電話によると、とても暖かくて
車の窓を開けて走ったそうだから。
照っても翳っても、この場所にいると静かな気持ちを取り戻せる。
ある時、京都太秦の広隆寺で仏像を見た。
仕事の帰り道ふと思いたち近くだからというついでのことだった。
仏像は暗がりのなかに横一列に並んで在った。
そのときわたしはとても疲れていたのかもしれないが、よくお顔
の見えない仏さまに、ふれたような気がしたものだった。
東京の国立博物館にはこの春にも国宝級の仏像が展示される。
(興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」3.31~)
大勢の人が観にいくだろうけれど、管理の行き届いたガラスケース
の中をのぞいて何を見ることができるだろうか。一度実物を見た
いという気持ちはわからなくもないけれど、見るは観るではない。
仏は「観」なのだから。そうでなければわからない。
仏像をたくさん見て歩いた20代の頃、その多くを博物館などでは
なく、その仏さまのそもそもの由緒ある場へでかけたものだった。
出張なさった仏さまは、仏像になっているので感じることも想う
こともできなかった。だから立派すぎる宝物殿にある仏像はもう
見ない。疲れるだけだからである、うさこの場合。
野に仏、と昔の人が言った。
野の仏、とうさこは思う。
ここで嵐の音のなかに、ゆるんだ土の上に、仏を見ている。
そして、遠くはるかに、山の神を思う。
日本は四季のある地、その意味するところは深い。
これが木の一本もない赤い砂と岩の大地だったら、もっと心は
尖り、もっと悲しみは深くなったことだろう。
四季がめぐり、凍ったこころをほぐし、ふたたび芽吹いてくる
命を享受して、素直に生きよ、素直に在れと教えてくれる。
眼の前にあることをおこたりなくやること。
高望みも、ないものねだりも、風が吹き飛ばしてくれる。