わかってはいたけれどベイビーの症状は今イチ、副作用を懸念しつつ投薬継続と
なった。新しい薬が効くことを祈るばかり。
診療所の待合室では珍しく他の犬たちと一緒になった。
どの子も静か。騒がしい子がいないのは揃って老犬だったからである。
待合室で点滴を受けていたのは器量よしのゴールデン・レトリーバーで聞けば14歳半
だという。慣れた様子で医者に身を任せ、クンとも言わない。注射針を刺した状態で、
ベイビーとクンクンしあっていて、いったい何を話し合っているのか、わかったふうな
顔をしてうちのボクちゃん、心なしかうなづいているようにみえたりする。
その他に17 歳の猫、13歳の黒ラブとみんなジジババ、飼い主も中年以上、みな穏やかに
処置を待っている。騒がしいおしゃべりなヒトも大声のヒトもいない。ほっとする。
生きてきたらどこかしら具合悪くなる、なったら手当する、あたりまえのことをやってる。
治療を放棄し、あげくは捨ててしまうヒトもいるからこのあたりまえは良いことのように
思われもするが、良い悪いではなく、それしか選択肢はないというのが本当である。
ペットの死骸はゴミか、という問題提起などしないでほしい。愚の骨頂である。
殺人犯が殺した死体を切り刻んでゴミ袋に入れて投棄しても、それは死体であってゴミ
ではないのと同じことだ。犬が猫があるいはその他ヒトに飼われて暮らした動物が
死んだのち、それをゴミと呼べるはずがないではないか。
かたわらで息をしていたことを知っている者にとって、たとえ保健所へ引き取ってもらう
しか方法がない場合とて、生ゴミではないのである。
日本には忠犬物語がいくつかある、といってもすぐに思い浮かぶのがハチ公と南極物語の
タロージロー(だったっけ?)だけだが。感動は語り継がれていたはずではなかったか。
犬はヒトの及ばぬ能力を発揮し、ヒトを導きもし、守りもする。
ふだんはかわいいおもしろいでヒトを癒しているが、実は見えないものを見、
ヒトには聴こえないものを聞くのであるからな。
賢さにおいて犬は偏ったヒトの脳みそを遥かにしのぐし、俊敏な足と鋭い牙まである。
遠い目をしているのが老眼とかぎったことではなく、風に乗った匂いをかぎわけ密かに
堪能していたりするのだ。
根性の曲がったヒトの心を開くのは難しい。その固く閉じた扉を蕩かしてしまうのも犬だ。
なぜなら、彼らは嘘をつかないし策を弄したり裏切ったりしない、まっすぐなのだ。
まっすぐは、神さまに近い証拠なのである。
人づきあいは苦手でも犬ならば心を開いて当然である。
その命が尽きようと、通いあった心と絆を捨てようがないではないか。永遠である。
山桜、数年前に撮ったもの↓。四月末から五月三日位までがいつも見頃だ。
いまはまだ固い蕾、淡い花など想像だにできない顔をしている。